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2012年11月29日木曜日

ランドスケープはそこの暮らす人々の鑑である



一昨日から昨日まで、Landscaperランドスケーパーの佐々木知幸さんが、北九州に来てくれた。直接会うのは3回目のこと。大学で僕が担当する授業に特別講師として来て下さったのである。

元々は、ツイッターでヤドリギ探しのやり取りを通じて知り合い、富田くんの紹介で直接お会いしたのが、今年の7月のことである。ベトナムの経済発展の最中、地域の樹木にはどのような影響が及んでいるのかを見に行きましょうというのが、ご一緒頂いたきっかけである。

僕自身は、植物について、全くの素人である。佐々木さんには、訪問したハイフォン市で、街路や会社の敷地内、郊外の鉱山などで、どんな植物があるのかを見て、これからどんな調査をしていくのかを見定め頂くのがお願いしたことであった。

今回の授業で、佐々木さんが掲げたテーマは、「企業とランドスケープの、これから」である。ランドスケープとはどういうことか、それを見ていくことで何が分かるようになるのかを解いて下さった。印象に残るのは、「ランドスケープは、そこに暮らす人々の鑑である」というメッセージである。

例えば、ファッションは、私たち自身が選択して身につける人為的な造作である。どんな服装を選ぶのかは、私たちが周りの人にどう見られたいのか、(どう見られても構わないということも含めて)という意図を反映している。

その人の内面を直接見ることはできないが、服装を見れば、それを間接的に感じることができる。それは、会社の外観や街並みについても言えることである。この補助線の引き方が秀逸だった。若い聞き手にとって、話を整理しやすくするメタファーだったと思う。

ランドスケープは、その街の風景であると同時に、その街に住む人がどういう内面を持ち、文化を育んでいるのかを表す鑑なのだということ。また、ランドスケープをデザインするということは、その街に住む人達が、自分たちがどのように見られたいのかを画策するということなのである。

工場立地法で、ある一定規模の事業所は、植栽をすることが義務付けられている。北九州の歴史ある事業所では、何十年も前からの植栽が基本になって、工場地においても地域の植生を形作って来ている。

洞海湾の周りを佐々木さんと訪ねていくと、人工的な植栽が歴史を重ねる中で新たに自生した植物を含めて更新していることに気づかされる。いつもなら、見過ごす風景に、引っかかることができるようになる。周囲の見方が変わる体験だった。

ランドスケープは、人為的な営みによるものである。一方で、人為の及ばない自然物を取り込みながら成り立つはずのものである。しかし、近代化の中では、人為の外にあるものをなるべく排除して、人為で成り立つものを選択しようとしてきた。

もちろん、人に動植物を愛でたい気持ちがあるからこそ、それを取り入れてきてはいる。洗練された街並みに、申し訳程度に植栽された樹木は、その気持ちの表れと言えるだろう。ただし、これからも同じでよいのかどうか。

宅地開発のための大造成作業は、何十年前から同じ方法論で進められる。樹木を皆伐し、山を崩して更地にして区画整理をしてから、申し訳程度の植栽を加える。そんな方法論は、もう時代遅れなのではないか。

そのような旧来の方法論で開発られた土地を私たちが好んで使いたいということであれば、それが私たちの内面を表しているということなのだろう。

もちろん、人間も自然から生じた自然物である。ある自然物が他の自然に干渉するということはありふれたこと。ただし、その干渉によって、新しい秩序が生まれるということを忘れては行けない。それが、人間にとって有利な秩序とは限らないからである。

以前、所ジョージさんが、交通ルールで「登りが優先」では登りの車が偉そうだから、「下りが遠慮」と表示した方がいいと言ったのを思い出す。僕は、人間なので、人為的に快適さを担保した空間で過ごしたい。だから、「自然優先」というつもりはないが、もうすこし人間が自然に「遠慮」するべきだと思う。

住宅や工場を造る時には、そこにある自然をご破算にするのではなく、すこし遠慮しながら進める。自然の中に「間借り」をしながら生きる術を構築していくべきである。それを1つの主義としながら、経済性との接点を見つけていくことが、新しい時代の英知として必要だと思う。

私たちが、「空気を読む」ことを得意とするなら、その延長線上で「自然を読む」こともできるのではないだろうか。これからの「森の生活」を構築していくこと。すでに取り組んでいる人は、佐々木さんも含めて何人もいらっしゃるだろう。僕は、彼らの英知を学んで行きたい。

この半年に、ランドスケーパーである佐々木さんとのやり取りを通じて考えたことを書き連ねてみました。感謝感謝であります。