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2023年5月25日木曜日

下らない工作

僕の好きな下らない工作は、スパークリングワインの

コルク栓と金具カバーで、人形を作ることです。

こうするとなんとなく、ドレッドヘアーの

レゲーシンガーに見えませんか?

なかなか並べて飾るほど増えないのが難点です。

2023年5月24日水曜日

最高の贅沢とは?

宗像のLa Jolla(ラ・ホラ)さんには、しばらく行けてない。
ここのサラダラップは、トルティヤに、具材が盛々と詰められてて、
ボリューム満点!
野菜は、店の隣で栽培したものを収穫して使っているらしい。
僕が、猫の額家庭菜園で、野菜を作っているのは、
こんな感じの食事を自分でやりたいから。
外食や昼食の魅力的なお店がどんどん開くので、
どれにも行ってみたいのだけど、
きっと最高の贅沢は、自分でこさえたもので、
生活を彩ることなのだろう。





 

2023年5月23日火曜日

コーヒードリップは味噌こしで

アメリカ駐在の時には、しばらく“味噌こし”でコーヒーをドリップしていた。
スーパーを何軒もはしごしたのだけど、見つかるのは、
電気式のコーヒーメーカーばかり。たしかに豆は、
ホールで売っているのだけど、ハンドドリップをする人は、
少数派なのかもしれない。
義弟が日本から送ってくれるまでは、この写真のセットでやり過ごした。


 

2023年5月22日月曜日

どうぞご自由に

一年間、駐在していた彼の国では、庭先に家具を出しておくと
誰かが持って行ってくれる。こうやって、出しておくのは、
「ご自由にどうぞ」という意味で、誰が持って行っても構いません
という合図らしい。

こうやって、芝生の上の置かれたソファも、きっと誰かに
もらわれて行ったのだろう。
こういう習慣は、土地が広くで贅沢に使うことができ、
他人のことに無頓着で、詮索したりしない、
国民性のなせることなのだと思う。



 

2023年5月17日水曜日

ご飯を食べている時は

ご飯を食べているときは、幸せな瞬間なので、知らず知らずに心が緩む。一日で最も心が無防備になるののは、きっとご飯を食べている時なのだろう。だからついつい色々なことを話してします。そのついついの中に、本音がまぎれ込んでいて、自分のそれに気付くことにもなったりする。また、心が無防備になっているので、その時に、嫌ごとや厳しい非難を浴びせられたりすれば、何倍もやな気分になるし、場合によっては、向きになって反抗したくなったりする。そんなことになれば、場の楽しい雰囲気が台無しになるので、ご飯を食べながら、嫌ごとをいうのは控えたい。

ご飯と食べる時は、心が緩むので、相談したり、頼み事をしたりするにはピッタリである。ご飯を食べて心が満たされている食後の時間もいい。頼みごとをするのに、相手がご飯を食べる前の気持ちがちょっといらだっている時は、避けるべきだ。そして、頼みごとをするときは、正面から向き合うのではなくて、横に並ぶのがよい。だから、バーのカウンターなんかは、相談や頼みごとには、打ってつけなのである。

始めてAirBnBで泊まったダラスのアパート

2023年5月16日火曜日

急いては事をし損じる

 大切なものほど、撮影するとピンボケして写ってしまうことが多い。今回は、野いちご摘みの時に、ザトウムシを見かけて、しかもそれらが野いちごを食べているところだった。

これは、ザトウムシの生態解明の一助になるものと思い、 iPhoneのシャッターを何回も切ったのだが、ピントは被写体の向こう側に当たってしまっていた。これでは、 ザトウムシが実際何をしているのかがよく分からない。取り直そうにも、同じシーンに出会えるとも限らない。

なんでもったいないことをになってしまったんだろうか。大事なことだと思って、 急いで取り組んだときには、何か抜けていることが僕の場合は多い。

「急いてはことを仕損じる」と言う言葉があるが、まさにこのことを言うのだろう。

分かる人にはきっと分かる


2023年5月13日土曜日

意識を生み出す何か

脳は、私たちが何かを意識するコンマ数秒前には、関連する部位が働き出していると聞いたことがある。例えば、水を飲みたいなと考える少し前に、脳はそのように作動しているらしい。意識と同時に脳が働いているというのであれば、意識と脳は連動しているということになるのだけど、意識より先に脳が作動しているということであれば、その脳の作動は、何に因るということになるのだろうか。偉大な思想を生み出す哲学者の脳も、意識する前に脳が動いていたということになる。では、その生み出された思想は、何が生み出したということになるのだろうか。脳の動きが、自分の意識を起点としないということであれば、このブログを書いている僕の意識もまた脳に影響を与える何ものかが生じさせる現象だということになる。個人が紡ぐ思想、人の集まりによる社会的な思想は、何が生じさせているのだろうか。そんなことを考えながら、意識が遠のき、眠りに落ちると意識はなくなり、また、朝になれば意識が立ち上がる。こういう不思議は、学問になる。

チェサピーク・ブルークラブ(ワタリガニ)はどんな夢をみるのか

2023年5月10日水曜日

時間と記憶

1日の終わりにブログを書いている。6時に起きて、あれこれやって、17時間が経った。過ごしてみるとそんなにも時間を経たのかどうか、実感がない。そういえば、子どもの時に、家の近くの川原で石をめくっては、魚釣りの虫を捕っていたことも、つい最近のことのように思う。ほんの1時間前のことも、40年以上前のことも、以前のことを思い出のは、一瞬のことなのでである。40年前のことを思い出すために、40年はかからない。そんなに時間が掛かるのでは、思い出してしまう前に、何を思い出そうとしているのかを忘れてしまいそうである。40年前の川原でのことも、頭の中では現在であるということなのだろう。僕は、すぐに引き出すことのできる何十年も前に得た記憶に支えられつつ、常に過ぎゆく現在を生きている。いつもは、そんなことさえ気にもせずに。

At the end of the day, I write this blog. 17 hours have passed since I woke up at 6:00 a.m. and did several things. I don't realize how much time has passed since I woke up at 6:00 a.m. and did this and that. It seems like only recently when I was a child, I used to turn over stones in the riverbed near my house to catch bugs for fishing. It does not take 40 years to remember what happened 40 years ago. I guess that means that what happened at the riverbank 40 years ago is still current in my mind. I am constantly living in the present, supported by the memories I have acquired decades ago, which I can easily retrieve. Usually, I don't even care about that.

ダラスのハンバーガー, 2016


2023年5月9日火曜日

間合いの大切さ

柔道は7年くらい続けて、そのあと辞めてから35年くらい経つので、もう経験者だとは言えないと思う。それでも、やっていた時に身について、忘れないことがある。それは、間合いを取ることの大切さである。組み合う相手と呼吸を合わせつつ、一瞬のズレを生み出して懐に入り込む。最小限の力で、相手を制する所作である。ただ、制することは、柔道の大事な教えてはなく、それを形にするための自身の心身を自在に操ること、また、その困難さを会得することこそが本質なのだろうと思う。柔道は、武術であり、試合の勝ち負けを決するのだけど、その結果は、自身を知るための手段に過ぎないはずである。こんな気づきを得てはいるものの、日常生活の中で、実を結んでいるかといえば、そうでもない。話す相手との間合い、適切な発話の選択など、改善の余地はいくらでもある。まあ、そういう余地の存在に気づけるようになったのは、子どもの頃やっていた柔道なのだろうと感謝している。

ニューヨーク!2016


2023年5月8日月曜日

自分のことより、周りの人のこと

自分の誕生日は、父母に感謝を伝える日にしています。父母が居たから、自分がいることを改めて強く意識するようになったのは、自分が人の親になってからのことです。子どもは、親に感謝などせずに育っていくものだけど、そのターニングポイントになるのは、どの時なのではないだろうか。自分が五十路に入れば、父母が達者で、長生きしてくれることを願うばかり。ただ、運命の日が先延ばしになることを祈るばかり。離れて住んでいれば、なおのことである。父母には、子どものことから、自分のことより、周りの人のことを先にするように言われて育ってきました。そのことは、今も染みついていて、日々の行動の第一原則になっていると思います。世の中は、多様な人で成り立っており、自分もその一員として、その行動原則を大事に思いながら参加できていることを改めて誇りに思います。

2016年のサンパウロ


2023年5月7日日曜日

花より野菜

猫の額のような賃貸の庭で、家庭菜園的なことをしている。引っ越してきた時には、花の苗を寄せ植えて飾っていたものだけど、ここ数年はすっかり野菜ばかりになっている。特に、2020年の春からは、外出が制限されることがよくあったので、庭で土をいじるのが、息抜きになっていた。

野菜を植えるのは、収穫して食べる楽しみがついて来るからである。花の中には食べられるものもあるが、野菜は花を咲かせ、さらに食べることができる。中には、花が咲いたらも食べられないものがあるので、要注意である。

レタス、チシャ、不断草、小松菜、インゲン豆、二十日大根、カボチャ、タマネギ、唐辛子、ミョウガ、トウモロコシなどなど。特に、ここ数ヶ月は、葉もの野菜は根が高い。また、夏場の素麺やざる蕎麦を食べる時に、庭に出ればミョウガを採って来られるので、薬味には困らない。ミョウガは、根っこを残しておけば、まいとし芽を出してくれる。

食生活を全て賄うほどの量を収穫することできないのだけど、家計の助けになっているようだし、自分で作付けして世話をしているものを食する楽しみは、代えがたいものである。暇さえあれば、種を空いたスペースに撒いて、発芽を楽しみにしている。初夏は、どんどん野菜が育つので、飽きることがない。

去年の唐辛子


仕事を離れて、何もしない数日を過ごせば

 自分を甘やかす9日間が、そろそろ終わる。この間のマーベラス・ミセス・メイゼルからの学びは、「歩みを止めるな。舞台に立ち続けろ。」ということである。仕事は、放電の時間であるから、誰にでも充電の期間が必要である。放電しながら充電し続けることもできるが、それは、差し引きマイナスの放電過多の傾向になる。仕事を離れて、何もしない数日を過ごせば、初動で手足の動くことが、きっと性に合った仕事なのだろうと察しを自身でつけることができる。つまらないのは、これまでにやってきたことを縮小再生産するようなことである。常に、未経験のことを取り込んで、経験をアップデートしていくことが、自身のご機嫌を良好に保つ数少ない策だと思っている。それは、身の回りの人達を勢いづけることにも繋がるのだろう。



2023年5月6日土曜日

自身の成り立ちをよく知ること

人生の一大事は、自分ではない誰かにある。それは、誰かがそこにいるから、自分自身があるからである。自分がいなくなったとしても、自身は困ることはないが、他の誰かが困ることになる。そう思うから、生きて何かをしていようと思えるものである。自分が自身のためにだけあるということはできるのだろうか。自分が他がどうであれ、自身として成り立つというのは、行き過ぎた西洋的個人主義なのだろうと思う。自分は、他の誰かとの関係によって成り立っていて、思考もまた不可であり、他との相互作用において成り立っている。そう考えれば、自分の身の置き場についてよく考えるようになるし、自身の発言について慎重であることができるようになる。自身の成り立ちをよく理解することは、取り巻く他への思いやりにも気を使うことに繋がるのだと思う


2023年5月2日火曜日

磯はいつも形を変える

すこし促される形で、ブログをまた書き始めた。毎日の日課として書いていたことがある。また、気が付いたら書くということもある。書いたり、書かなかったり、何かきっかけが、有りや無しや。僕の場合は、流れるままである。毎日、1年間続けて書き続けられるのは、物書きとしての才能であるし、何より根気のなせる技であると思う。誰かが取り組んでいることは、大抵は、根気よく続けることで、ある程度までできるようになるもの。ただ、それをするつもりになるかどうか。その興味関心の方向の違いが個性なのだろう。
近所の磯はいつも形を変える