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2021年7月31日土曜日

トレーニングへの動機付け

7月31日(土)

こんにちは。辻井洋行です。

朝から走るとか、体に負荷を掛ける時には、そのご褒美になるものが必要だと思う。それは、身体の喜びになるはずのもので、それがあることで、もうちょっと頑張ろうという気持ちにさせてくれるものである。

もちろん、そんなご褒美がなくても頑張ることができるのは、アスリートなのだろうけども、なんでもない素人が、体を鍛えることそのものを喜びにできるばかりではないだろう。

たとえば、こういう朝日は、その時間にその場所にいなければ、眺められないもの。冬場にどれだけ寒くても、この光景さえあれば、早起きして走りに出かけられる。ただ、冬場には、寒すぎてスマホのリチウムイオンバッテリーが誤作動を起こしてしまったこともしばしばだったけど。




2021年7月30日金曜日

手仕事の愛おしさ

7月30日 金曜日

こんにちは。辻井洋行です。

誰かの手仕事は、愛おしい。手仕事の愛おしさとは、不確かさである。ある規格や基準に寄せるように造形しつつも、そこに納まらずはみ出してしまうものを含んでいる。力強さとはかなさが同居している。この造形は、どういう工程で、ひとつひとつ為されてきたのだろう。また、この手仕事以前には、どんな経験がなされ、ここに反映されているのだろうか。そういう妄想をかき立てるのも、また、手仕事なのだろう。

手仕事に潜む人が、面白みなんだな。




2021年7月29日木曜日

他人に人生の選択を委ねないこと

7月29日 木曜日

こんにちは。辻井洋行です。

ウィズコロナでも、なんでもいいのだけど、感染症と共にある暮らしを送ることについて、腹をくくる必要がある。街角の声として、政府による厳しい規制を求める声が拾われ、メディアで報じられるのだけど、マジかといつも思わされる。

世の中に風邪が流行っていれば、感染リスクのある場所に行かないとか、飛沫をかぶるような場所にいかないということは、自分の頭で判断して、行動を選べばよいはずである。それを政府が規制を掛けるように促す人の心持ちは、なんだか先生に指導して欲しい、偉い人に指示して欲しいという幼稚性の表出であるように思う。政府に、個人の行動を規制されるのが安心というのは、人生の選択を誰かに委ねているようなものである。

自分の行動の方針は、自分で状況を踏まえて考え、自身で実行したい。今であれば、手指消毒とマスク、誰かの飛沫をかぶるような場所を遠慮すること。また、機会が許せばなるはやでワクチンを接種すること。それだけで、感染と重傷化のリスクをずいぶんと下げられる。

取り組むべくは、とてもシンプルであり、自分の頭で考えることである。政府が、個人の生活いの隅々にまで、橋の上げ下ろしにまで、介入するような状態だけは、なんとか回避したい。



Am I bad man?

2021年7月28日水曜日

石敢當が戒めるもの

7月28日水曜日

こんにちは。辻井洋行です。

おまじないが日常にあることの意味について考えています。僕にとってのおまじないは、初詣やたまに神社へお参りすることくらいです。初詣の時には、お守りを頂いて、身につけています。もっとも気をつけているのは、交通事故なので、車にもお守りがついているし、年末年始には、必ずしめ縄を付けています。

とはいえ、僕の日常を見直せば、おまじないは、年に一度の季節ものになってしまっているわけです。おまじないをするよりは、自動車保険に入っておこうとか、なにか道具を買って安全を確保しようとか、金銭的・物理的解決を選んでいるのです。

その点、沖縄の街中を見渡せば、石敢當があちらこちらにあって、住居への邪気の侵入を跳ね返しています。そこには、保険や道具では太刀打ちできないものへの備えがなされています。科学が普及して、迷信が消え去ったのが現代です。それでも、変わらずに存在するのは、人の気持ちであり、その緩みです。この石敢當は、目に付く場所にあることによって、人の気の緩みを戒めているのでしょう。

様々な事故やトラブルが、人の気の緩みで生じるものであり、それを予防するものがこれでああるとすれば、毎年、保険金を掛けたり、安全用具を購入するよりは、何十年、何百年も効力の続く石敢當を据える方が、合理的な解決策になるのかもしれませんね。




2021年7月27日火曜日

潜ること、息を継ぐこと

こんにちは。辻井洋行です。

一人で何か考えごとをするのは、水に潜る動作に似ている。息を止めて、苦しくなるまで深みを目指して潜っていく。ずーっと潜っていくと3メートルくらいのところで、耳の奥が痛くなるので、耐えかねて浮上してくる。ここ数年は、そんな泳ぎ方をしていないけど、川の淵で泳いだ時のことを思い出す。

その一方で、人と話すことは、息継ぎのようである。深い淵でみたり触ってきたものを誰かと共有するような作業である。話すことで息を吐きながら、外の空気を吸っている。外の空気ばかりを吸ってばかりいるとまた水に潜りたくなる。ただ、外の空気には、中毒性があるで、潜ることを忘れさせてしまうことがあるので危険だ。

深淵を分かち合うには、いつでも水に潜ることを日常にしている必要がある。外の空気ばかりを吸っていると分かち合うものが無くなってしまうのである。潜ることを忘れぬうちに、また潜る筋力を落とさぬように、いつも気持ちは潜水の方向へと向かわせていよう。



2021年7月26日月曜日

アジア的猥雑さ

こんにちは。辻井洋行です。

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@htsujii  2010年6月2日
日本を含むアジア地域における統一性のない雑多な町並みや文化のことを「アジア的猥雑さ」と呼ぶことがある。その猥雑さの中にある多様性を引き出して根強い社会を作ることがこれからの世代の役割だと思う。
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このツイートは、かれこれ11年前のことだけど、書いたことを良く覚えている。ムダが省かれ、何もかもを意識下に置こうとすることの危うさについての問題意識である。アジア的な猥雑さは、統率や指示命令系統の無さであり、だれも意識しないうちに育まれていくものである。日本も多分に漏れず、猥雑さを醸し出す場所は、そこかしこにあったものであるが、いまでは、再開発によって、公明正大や統率されたものへとどんどん変貌している。

完全に統率された場所には、イレギュラーを受け入れる余裕はない。小動物も野良猫の姿も見えない場所である。シンプルでよくオーガナイズされた場所というのは聞こえがよい。しかし、雑味や無駄から生じるものが、私たちを助けるかもしれないという機会を捨ててしまっている。

統率が社会の行き詰まりを招いているとすれば、この猥雑さを見直す時が来ているのかもしれない。




2021年7月25日日曜日

稲穂が気づかせてくれる

こんにちは。辻井洋行です。

自分自身に起こっている変化について気づくのは、なかなか難しものです。その代わりに、身の回りの変化が、時間の経過を教えてくれます。つい先日に、植え付けられていたと思った稲の穂がもう頭を垂れています。

きっと、この間にもできることができるようになったことがあり、また、できなくなったこともあるはずです。その変化は、少しずつ進んでいくので、改めて棚卸しすることで、測定することができるのでしょう。

ただ、そうしなくても、稲や他の身の回りの動植物をみていれば、自ずと気づくことができるようになるはずです。それは、コンクリートの建物の中にずっと籠もっていると見過ごしてしまいがちのことなのでしょう。



ハガキのやりとり

こんにちは。辻井洋行です。

2年前に、絶妙なタイミングで勤務先の大学を退職した先輩教員と数ヶ月に1度、ハガキのやりとりをしています。やりとりといっても、まだ、2往復目に入ったばかりです。

先方は、デジタル・デトックスということで、SNSは御法度とのこと。ハガキなら大丈夫かと考え、送ってみたところ、返事を頂けました。

急を要する連絡があるわけではなく、生存と消息確認のためのやりとりには、ハガキくらいの分量がちょうどよいようです。

また、ハガキが伝えるもの、手書きでしたためられた文章に宿る質感は、bit mediaには担えないもののようです。

今後、手紙のような物質的なやり取りは、いよいよ贅沢となり使えなくなっていくのでしょうか。もしくは、bit mediaの方が電力不足で使いにくくなっていくのでしょうか。はたまた、bit mediaが、肉筆の質感をまとうようになるでしょうか。






2021年7月23日金曜日

多様性への責任

 こんにちは。辻井洋行です。

庭木の葉っぱを見てながら得た妄想です。僕が借りている家は、約30年前に竣工したそうです。おそらくこの目の前の植栽(レッドロビン)も30年前からここにあるのでしょう。当時のこの土地には、山があり、雑木が林立していたはずです。これまでにも、人が住んでいる場所に、空き家ができ、そこに住むこともできるはずですが、新興の住宅地が生まれました。宅地が造成され、区画が決められた場所に、人工的な植栽がされたわけです。

生態的な多様性は、造成前の方が豊かなはずです。そこに、住む人にとっての見た目の良さ、それは住宅販売会社にとっての、商品価値に置き換えることもできます。私の目の前にあるのはレッドロビンという、植栽のための樹種です。


その責任とは何か。それは、もともとそこにあった植生の多様性を抑制しまったことに対する責任です。失われた多様性は、回復するするためにそれなりの時間を要します。多様性が不足しているという事は、大きな目で見ると、私たち人間にとっても、生存上不利な状況を生み出したということです。私たちは不利な状況を生みながら、短期的な快適な住居環境を得ているとみなすこともできます。

その責任を負ったであれば、できるだけ住居環境の中に多様性を持ち込んでいくこと、多少住みにくくなっても、植栽やそこに住み始めた動植物に敬意を払い、遠慮しながら生きていくこと。そういう事が、途中を開いたことを上の片棒を担ぐ人にとって、責任を果たすということなのかもしれません。





2021年7月22日木曜日

気になるスリット

こんにちは。辻井洋行です。

散歩していて、たまに目にとまるものを撮っています。まあ、何というものでもないのです。
それでも、たとえば、この人工物の隙間から、意図せずに伸びて外へとはみ出したツルの姿には、力強さや偶発性を感じさせられます。

また、このコンクリート塀を組んだ人は、どうしてこのスリットを選んだのだろうか。いま、一本、二本が伸びているこのスリットは、この後、どんな具合になってくるのかだろうか。これらのツルを頼りに、どんどんと内から外への進出するものが増えるのか。はたまた、所有者によって、引き抜かれてしまうのだろうか。

そして、このスリットの向こうには、何があるのだろうか。

そんな妄想をかき立てられます。そんな心の引っかかりを大事にしたいものだと思っています。






2021年7月21日水曜日

自分のミッション

こんにちは。辻井洋行です。

「ひとり一人が、誰かに寄りかかることなく自分の足で立って生きていく世の中を作る」というのが、20代の頃からの僕自身のミッションです。これまで、取り組んで来たことは、多かれ少なかれ、このミッションに沿ったテーマであり、課題であると思っています。まだ、なかなか世に出る成果を示し切れていないのですが、自身のミッションは、忘れずにやって行きたいです。

それなりに長く生きて、活動していれば、自分のミッションに関わる人に出会います。その人が、概念や技術をもたらし、僕の世界観を広げてくれます。人との出会いは、直接的であれ、間接的であれ、自身の価値観に影響を与えます。これからは、もう少し、アウトプットを意識して過ごしていこうと思います。



 

2021年7月20日火曜日

オニユリのように

こんにちは。辻井洋行です。

この2週間連続での民間プチ宇宙旅行、消費電力50分の1というMRAMの開発、欧州での記録的な大雨、気合いと根性の東京オリンピック、ウガンダ選手の失踪、アフガンでのタリバンの勢力回復、河南省アルミ合金工場での大爆発、北米とカナダを襲う熱波などなど。

広い世の中では、いろんな事件が起こっています。それでも私たちは、それぞれの生を生きています。誰かのことに敏感になりすぎると、とても平気では居られないことばかりですが、私たちは、適度に鈍感であるからこそ、こうしてブログを書いていられたりもします。

感受性がなければ、問題に気づけず、誰かに貢献することはできません。ただし、それが敏感過ぎれば、手足が動かず何もできません。適度な感受性を持ち、適度な鈍感さを保つくらいが、ちょうど良いのでしょう。

オニユリは、根付いた場所の状況の変化に応じて、花を咲かせたり、すこし遠慮したりと自由自在です。私たちはどうでしょうか。




2021年7月19日月曜日

夏は葡萄狩り

こんにちは。辻井洋行です。

夏は、実りの季節です。桃、スイカにメロンと果物が豊富ですが、僕は葡萄が気に入っています。特に、去年あたりからシャインマスカットが目立ちはじめ、巨峰と並ぶ人気品種になっているようです。

福岡県には、田主丸という葡萄の大産地があります。田主丸では、1957年から巨峰の作付けが始まり、水稲栽培からの切り替えを徐々に進めて現在に至るそうです。僕は、その長い歴史の最先端の成果を摘まんで楽しませて頂いています。

葡萄の甘さとさっぱりした果汁は、乾きを潤してくれます。当地には、ワイナリーもあり、試飲することもできます。2019年までは、大型観光バスがたくさん来ていましたが、去年と今年は、それほどの大口来客はないかもしれないですね。こういう時は、小口での訪問のチャンスです。

毎年、お盆前後から8月末の辺りがピークです。最寄りは大分道の朝倉ICです。この夏の小旅行にぜひどうぞ。




2021年7月16日金曜日

農業用水路の亀

こんにちは。辻井洋行です。

夕方にいつも散歩する農業用水路には、アカミミガメが住んでいます。数えた範囲では、大きな大人サイズが5匹、若いのが5匹で、合計10匹程度。田んぼへの水の引き込みや払い出しの都合で、この用水路の水位は激増と激減を繰り返すのですが、その中でもたくましく生きています。

コンクリート三面張の用水路なので、冬眠をどこでしているのか想像がつきません。もしかしたら、水の中でじーっとしているのでしょうか。冬眠中は皮膚呼吸で水中の酸素を取り入れているという説明を読んだことがあります。

いずれにせよ、このたくましさ、見習いたいものです。写真は、ふてぶてしい「主」と形容するべきやつで、なかなか逃げません。見上げた落ち着きです。w










土から生まれ土へ戻る

こんにちは。辻井洋行です。

私たちの体は、そこら辺にあるものと一体です。今朝まで、家庭菜園になっていたプチトマトに含まれていた分子は、僕の胃腸で消化されて、血液を通じて身体を流れ、一時、細胞の一部になっているのかもしれません。

人は、土から生まれ、そのうちに土へ戻ります。身の回りのものを体に取り込み、消化したものを排泄し、命を終える時には、全てを土に戻します。とはいえ、今時は、排泄したものは下水処理場で分解後に放流されるし、火葬が一般的であるので、土へ戻るということを実感することは難しいものです。

土から生まれることについても、食べ物を全てスーパーで買い揃えている分には、口に入れるものの来し方に思いを馳せるのは、なかなか難しくなります。それでも、いくらかを自分で生産することにより、収穫したものの延長上に購入品の成り立ちを思うことできるようになります。

このパイは、Jamestown Settlementというたしか17世紀のアメリカ東海岸の史跡公園で見つけたものです。なんとも魚を丸のままパイに仕立ててあります。その当時、大陸にやってきたばかりの人たちは、こういう工夫をして魚を食べていたのでしょう。私たちの体は、食べたものでできているわけですから、この当時の人たちの体は、魚とパイ生地でできていたということになります。


食べ物も、飲む水も、鼻から入って口から出ていく空気も、私たちの体を作るものです。「環境に優しい」というふわふわワードは、なにか可愛そうな守るべき対象として、環境を抽象的に扱っています。しかし、実のところは、環境は私たちの身体と不可分なものであり、不可分な一体であると気づけば、守られるべき危機的状況にあるのは、私たち自身であるということになります。

こういうものの見方は、あまり一般的ではないようですが、必要なことだと思います。

2021年7月14日水曜日

食欲をそそるチキンは食べたいしプラスチックバッグは便利なのだ

こんにちは。辻井洋行です。

世の中、景気が下向くとそれに釣られて心の余裕が無くなります。余裕がないので、いちいち他人のことが気になり、あれこれもの申したくなるわけです。他人の非を責めて、蔑んで引きずり下ろす。視野狭窄のため、その傾向がどんどんとエスカレートしていきます。日本の失われた30年というのは、そういう月日なのではないでしょうか。

景気は、良い方がいいです。人の懐に余裕があれば、少し通り将来のための投資にも心を配ることができるようになります。日々に追われないからこそ、考えを深めて、次の世代のために引き継ぐものを生み出すことができるようになります。

ただし景気を支えてくれる資源は有限です。エネルギーも汚してよい大気や水も。私たちには、将来得られる価値を小さく評価して、いま目の前にある価値を最大化しようとする性質があります。その性質があるからこそ、いわゆる環境問題は不可逆的に進行していきます。

まずは、私たちが何者であるのかを良く知ること。どんな性質があるのかということを理解することが、生きながらえていくために必要です。景気がよくても悪くても。

「そんなこと言ってもさ」という感情が湧いて来ますよね。食欲をそそるチキンは食べたいし、プラスチックバッグは便利なのです。それが止められないのも私たちなのだ知ること。このどうしようもなさを背負って、生きていくのでしょう。



2021年7月13日火曜日

街歩きが好き

こんにちは。辻井洋行です。

街歩きが好きです。出張などでどこかの街に行ったら、そこをプラプラ散歩します。ポケットには、スマホと少しのお小遣い。外国なら旅券の写しを入れて出かけます。

あまり、観光地には興味がありません。なんということもない街を歩いて、少し休んで冷たいものを飲んで、また歩きます。途中でお寺とか教会があったら、日陰で涼ませてもらいます。

燦々と照りつけるお日様の下を歩くのは辛いけど、うわ、ちょっと体力的にやばいかもと思いながらテクテク歩くのも記憶に残る散歩になります。暑い処なら、早朝か夕方がやはりいですよね。

写真は、サンパウロの北の方の街に、大学院の先輩夫妻につれていってもらった時のものです。





2021年7月12日月曜日

生まれたことには意味は無いけど

こんにちは。辻井洋行です。

森羅万象は、ただただそこに存在するものです。人がいる。虫がいる。微生物がいる。ウィルスがいる。それらを見上げれば月が輝いている。それは、物理現象であり、何かの意思が働いているものではありません。

ただ、森羅万象に意味を求めたい人の思いは理解できるし、共感もできます。人が生まれて生きていることに、もともと意味がないということは受け入れ難いものでしょう。それは、そこはかとない孤独とやるせなさを与えるからです。

とはいえ、人が生きることも一つの物理現象です。私たちは、気がついたら生まれていたのです。生を与えてくれた両親に感謝の念はあります。親の思いと共に多くの子は生まれ、育まれます。そこには生きる意味が生じます。生きる意味は見いだしていくものと言えます。

ただ、生きる意味は元々あるのだから、それは何かを見つけ出そうと言われても、それは困難なことです。私たちは物理現象なのですから。無い意味を見つけようというアプローチは、間違っていると思います。元々持っているはずのものを見つけようとして、いつまでもそれが叶わないとすれば、それこそ、そこはかとない孤独とやるせなさに囚われてしまいます。

むしろ、元々、生きる意味はないというゼロベースから出発すれば、生きる意味は、見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。ただ、それでもよいということになるでしょう。捉えどころのない自分に気を病んでしまうよりも、生を生きるという点では、よっぽど心持ちを楽にしてくれるように思います。




2021年7月11日日曜日

都市は全て誰かのものである

こんにちは、辻井洋行です。

都市に住むということは、誰かのものに囲まれて過ごすことです。例えば、田舎に住んでいれば、流しそうめんをするための竹は、河原の生えているのを1本切り出してくるだけのものです。

都市に住んでいるということは、この竹林は誰のもちものなのか、誰かに許可をとる必要があるのか、といったことを気にする必要があります。まあ、実際のところ、都市の竹林もまた、手入れがまったくなされていないので、適当に1-2本切り出してくれるくらいは、なんということもないわけです。とはいえ、何トンも組織的に切り出すとなれば、所有権の問題が生じるのでしょうけれども。

田舎には、入会地(いりあいち)と呼ばれる場所があり、その地域に済む人たちが、お互いに手入れをして、適当に守っている場所があります。僕が、昆虫採取をしていた林道なんかは、そんな場所だったと思います。細かく言えば誰かの土地なのでしょうが、そこで昆虫を採るくらい、ご自由にどうぞ、といった具合です。

都市にはいろいろ便利がものが揃っていますが、全て誰かの手の内にあって、事細かに管理されています。そういう豊かさと貧しさの両方が備わっているということでしょう。こういうことは、田舎で育たないと気づかないことなのかもしれません。





2021年7月10日土曜日

未だ名のついていないもの

こんにちは。辻井洋行です。

僕たちを次の世界へ連れて行ってくれるものとは、どういうものなのだろうかと考えます。それは、きっと表面的な賑やかしではないし、小手先のまやかしでもない。火星移住のための計画や技術さえ、もう既に実現に向けて動いているのものであり、現存の世界のものであると言えます。

そう定義すれば、次の世界へ連れていってくれるものは、未だ形になっていないものであり、名前もついていないような考えということになります。まだ、名前を呼ぶことができないものを認知しているのは、誰かとのやり取りの中で、何かウズウズとしたり、わくわくとしたり、時に、ニヤニヤしてしまったりする時何でしょう。

何か面白いことに触れているのだけど、まだ何だかよく分からない。そういう感じ。それに名前が付いて、計画になった時には、既に現世のものになってしまっています。そういうものにいつも触れていたいし、それこそが人生の楽しみであるのだと思う。




2021年7月9日金曜日

プノンペンにはBrown Coffeeがある

こんにちは。辻井洋行です。

こちらは、プノンペンにあるBrownCoffeeの
本社前にあるRoastery BKKです。
見えない角度のガラスの中に大きなロースターが据えてあり、
なかなか壮観です。

プノンペンに行った時には、休憩時間があると、
一度はここへ行ってゆっくりしたいと思っています。

カンボジアには色々な側面があります。
いろいろな関わり方、つながり方があります。

こういう店があって、人々が時を過ごしている風景もまた、
実際にそこにあるものです。

こういうカフェ文化からプノンペンやカンボジアに
興味をもっていくのもいいもんだと思います。

日本にもいろいろな風景や社会課題があるのと同じように。


 

2021年7月8日木曜日

プノンペンのピザ屋さん

こんにちは。辻井洋行です。

おいしいものを求める気持ちは、誰にもあるでしょう。これは、プノンペンで見つけたイタメシやで、ピザが有名です。ここへ来たのは、休みの昼の時間だったかな。クリスピーな香りのいいピザが釜からそのまま出てきました。

カンボジアといえば、伝統のクメール料理がもちろん美味なのですが、特に、首都プノンペンには、色々な飲食店が軒を連ねています。大使館があるので、もちろん高級店がたくさんありますが、庶民向けのこんなコージーなカフェがあって、ふらっと立ち寄る客を待ってくれています。

Piccola Italia Da Luigi Pizzeria




2021年7月7日水曜日

オフィスの窓

こんにちは。辻井洋行です。

先週までのうちのオフィスの窓です。あちらこちらで買い集めたものや頂きものをディスプレーしていました。箱にしまい込んでおくのもモッタイナイと思って飾り棚に並べておいたのです。いろいろなものがあるので、珍しがって覗き込んでくれる人がたまにいました。

職場のオフィスは、基本的に公的な場所なので、オープンにしています。こういうディスプレーがあれば、そこにいて仕事している人がどんな人なのか、なんとなく想像してもらえるものと思っています。

先週から、オフィスの使い方が少し変わったので、このディスプレーは閉店することになりました。また、別の形で窓の周りをデコレーションしようと思案しています。模様替えが趣味の住人が中にいますので、近々その時がくるはずですので、乞うご期待!






2021年7月6日火曜日

ピンクチキンに気づくには

こんにちは。辻井洋行です。

にわかに信じがたいことが起こるのをブラックスワンといいます。白鳥は、全て白いはずですが、黒い白鳥がいるということ。そういう驚きには、しばらく出会っていないような気がします。いや、もしかして、出会っているのだけど、関知するアンテナがさび付いていて、そうと気づいていないだけなのかもしれません。

日常において、主体的にものを考えずに過ごしているとなんでもかんでもが、右から左へと通り過ぎていってしまうのではないでしょうか。忙しさ、諦め、無関心は、心の感度を鈍らせてしまします。それを回復させるには、時間を持つこと、本を読んで著者と対話することが、自身の内面と向き合うことが必要でしょう。

そうしていると、車窓の光景に目を止めて、タイトルを含めた瞬間にシャッターを切ることができるのかもしれません。グリーンチキンやピンクチキンを珍しいと思えること。日常を離れることは、感度の回復に有効のようです。



2021年7月5日月曜日

ドラセナの伸びた枝を刈り込みました

こんにちは。辻井洋行です。

およそ18年連れ添った青年の樹(ドラセナユッカ)は、僕の背よりも遙か高くなりました。4本あった枝のうち3つは、何ヶ月か前に選定してしまったのですが。最後に残った1本の枝も、刈り込むことにしました。

この大きめの植木鉢も、植え替えを何度から繰り返して、これ以上大ききするのは、ちょっと憚られるサイズです。鉢を大きくすればそれだけ、植物は大きくなってくれます。なので、これで、しばらく遠慮してもらおうと思います。

すでに、以前に刈った切り口からは、ひこばえが伸びて来ています。同じ幹から新しく生えてくる芽の伸びを見守っていきます。いや、向こうがこちらを見守っているのかもしれませんね。

職場の緑には、癒やされます。スクエアな無機質のオフィスに居ると気持ちが滅入ってきてしまいます。そういうときには、鉢植えに水をやったり、枯れてきた葉を摘んだりと世話をやいて気分を和らげます。

刈り込んだドラセナユッカが、このあとどうなるか。乞うご期待です。




2021年7月4日日曜日

垂涎もののドラゴンフルーツ

こんにちは。辻井洋行です。

北九州にあるグリーンパークには、熱帯植物園があります。赤道付近の空気が恋しくなったら、いらっしゃってみて下さい。きっと、あなたの中にあるあの日の風景を思い起こさせてくれるでしょう。人によっては、里心をくすぐられるかもしれません。

僕にとってのドラゴンフルーツの思い出は、ハイフォン市にあるドラゴンホテルの客室に、毎日用意されていたウェルカムフルーツです。たまの手違いか、修理不足かで、シャワーから水しかでないことがありましたが、フルーツはいつも充実していました。

ドラゴンフルーツは、見た目と違って、手で皮を剥いて、中の白い実を簡単に食べることができます。サイズが大きいと頬張れないので、ナイフで短冊状にします。これが、ほのかな甘みをかもし、さっぱりした後味で、お腹が空いていたら何個か手が出てしまいます。

日本のスーパーにもたまにお目見えするようになりましたが、ひとつ4-500円くらいするので、さっと素通りし、また南国に行くときまでの楽しみにしておこうと思います。

この写真をみれば、触ると手がただれそうですが、食べたことさえあれば、垂涎ものです。ただ、ここは熱帯植物園なので、場所はわきまえます。


 

2021年7月2日金曜日

博物館の裏手で見かけた鋳型の外枠から妄想する

こんにちは。辻井洋行です。

これは、カンボジア国立博物館の敷地の裏手で見つけた鋳型の外枠かなと思って、パチリと撮って来ました。この博物館では、仏像の修復を行っているらしく、こういう型枠が、敷地の中にいくつもおいてありました。

こういうバックヤードは、ビジターは見られないものでしょうが、その辺りのおおらかさがプノンペンの良いところだと思います。どうやって使うのでしょう。同じ型の銅像を元に砂型を作って、金属を流し込み部品を造形しては補修するという作業をしているのでしょうか。

このような仏像鋳型の技術は、きっと職人さんの技術であり、OJTで承継されていくのでしょう。国立博物館や寺社の仕事の一つは、そういった職人の技術を絶やさないように仕事を作り続けることにもあるのでしょう。

そのうち、いや、すでに個々にも3DCADや3Dプリンタが持ち込まれて、もう鋳型不要になってしまっているのかもしれないけど。




2021年7月1日木曜日

Rがたくさんあーる

こんにちは。辻井洋行です。

プノンペンの旧市街地には、4-5階建てのビルが連なって街区を形作っています。いつ頃からの建物なのかはよく知らないのですが、なんとなく街並みがやさしいなあと思っていました。その理由は、角がなくRを施してあるビルがたくさんあるということです。
「待ち合わせは、丸ビルの角で」というのは、どんきほーてのネタですが、そう、角のないビルが続いています。

丸みには、寛容さと抱擁力を感じさせます。切り取られる青空にもゆとりを感じます。Rを付けることで、建築面積が減ることになりますが、どれによって、ビルとビルの間、ビルと道路との間にゆとりを設けたのでしょう。この設計が1件や2件でないことから、計画的な都市設計がなされていることが分かります。

それが、現代建築になると下から2枚のようなスクウェアで効率的な設計へと移っていっているようです。横のラインを効かせたり、格子を入れたりして、周囲との親和性を醸してはいますが、基本的な設計しそうが、上の6枚とは違っているように思います。

街並みは、設計者の哲学を慮りながら眺めれば、色々な発見や妄想を加速してくれるものですね。