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2021年1月31日日曜日

斬新なアイデアを職場が受けれてくれないのであればササッと新天地を求めよう

こんにちは。辻井洋行です。

自分の会社で仕事をして、思いついた斬新なアイデアを形にようとしても、なかなか周りが許してくれず悶々とする事はありませんか。そういう時には、それを取り組める別の会社に移った方法が、無駄な労力を使わずに済むということについて考えたいと思います。

ここでカギになるのはは、経路依存性(けいろいぞんせい)とい経済学と社会学の概念です。これは、「どのような状況においても、個人や会社が行う判断は、以前にその個人や組織が行った選択の形によって制約を受ける」という概念で、Jacob. S Hackerが1998年に提唱しました。 

私たちが働いている会社や組織は、一つの社会制度であり、そこに働く人たちが毎日行っている小さな決定の連続の結果として成り立っていると見なすことができます。組織的な意図に基づく判断というよりも、様々な偶然の中で行われた判断であり、大きく見ればその判断も偶然生じたものと見ることができます。

そのように考えると、会社は、多様な物事の考え方や成り行きの結果として形作られたものとみなすことができるでしょう。「社員一丸となって」という言葉がありますが、それは1つの思いであって、それを実現する事は簡単なことではありません。

そんな状況の中にあって、あなたがこれまでの会社の成り行きに沿わない新しい取り組みを進めようとしても、実現する事は簡単では無いでしょう。周りのメンバーは、口先で賛同を示したとしても、実際の行動に移してくれるかどうかは、成り行き任せとになります。結果的に、会社の中で浮いた存在になり、挙げた手を下げていくことになってしまいます。その会社がたどってきた経路が醸し出す慣性力は、それくらい強烈なものなのです。

組織の強すぎる慣性力の中で埋もれてしまうよりは、あなたが考え出したアイデアを実現できる場所を探して、新天地を求めることの方がむしろ生産的です。ただ、その場所が見つかるかどうかは定かではないし、探すための努力は小さなものではないでしょう。その努力を最小限にするためには、日ごろから様々な人たちとの強いつながりや弱いつながりを両方大切にして過ごしていくことが有効なのではないでしょうか。

この経路依存性を個人に置き換えるならば、例えば僕が別の人にはなれないという事です。例えば、ぼくが明日からリリー・フランキーになろうとしても無理なことです。それは、たどったきた人生の経路が異なるからです。ぼくがリリー・フランキーのように振る舞ったとしても、周りの人はそれを受け入れる事は難しいでしょう。ですから、私たちが全く別のキャラクターで生きていくには、環境もそっくり変えてしまうことの方が簡単なのです。

ですから、あなたが働いている組織の中で、新しいことに取り組むことを邪魔されたとして、組織を責めても結果は不毛です。むしろ、場所を変えてしまうことの方が、あなたにとって物事が生産的に進むことを期待できます。ぶつぶつ言いながらその組織に居残ってメンタルを病みそうになるのであれば、新天地を積極的に求めていきましょう。

Bát Tràng, Ha Noi



2021年1月30日土曜日

相手のことを誰も知らないのだからフィーリングで決めるしかない

こんにちは。辻井洋行です。

住んでる街の選挙が今週末なので、候補者の皆さんの街宣活動にもはピークに達していました。僕自身は、特別なひいき筋もないので、選挙のたびに投票する候補者は変わっていきます。選挙管理委員会が配布している選挙広報は読みますが、たいていは、候補者に会ったことがなく、よくわからないので、投票所前の選挙ポスターを見て、顔の見た目で最終的な判断を行うことが多いように思います。

特定の政党の支持を送っている人は、その政党の都合というのが反映されるでしょうし、無所属の人ならそれはそれで自分の言い分を議会で通す事は簡単ではないでしょう。どちらも一長一短であり、どちらが優れているわけではなと思います。

選挙ポスターは、おそらくいくつも取り直して、1番感じが良いとご本人や選挙事務所の人たちが思うものが採用されているはずです。いわゆる最高の商材写真のはずです。その写真から伝わってくる雰囲気、にじみ出す人柄に対して、自分の気持ちがどのように振れるのかということが判断材料になっています。

世の中は、それぞれの人の貢献で成り立っています。政治や立法は、法治国家に必要な仕事です。ぼく自身は政治家ではないので、代わりに誰かがその仕事をしてくれているということになります。

立法の動向や行政の流れは、新聞などメディアを通じて理解しています。その時々に同じような意見でまとまった人たちのグループが、立法のゆくえや行政上の予算を付けていくことになります。投票によって政治にチェックを入れるという役割が、投票活動を促進する意見としてありますが、多くの人はなんとなく投票してしまうでしょうから、ある程度これまでの流れが慣性力として働くでしょう。

その流れを変えるのは容易なことではありません。あまりにもひどい我田引水は、それをチェックするしかるべき役割の人たちが対応するでしょう。(むしろ、そのチェック機能を果たす行政上の人選こそ立法上の課題かもしれないけど。)

そういうことであれば、新聞や選挙公報で読み取った公言されている政策と選挙ポスターで見る面立ちの好き嫌いで判断するということになります。世の中には、選挙にしゃかりきな方もしれば、全く無関心の方もいます。ぼくは、投票にいくけど、どこかにおもねたり、肩入れするでもなく、その人の雰囲気を感じ取ってヒョイと投げ込んでくる。そんな感じです。



2021年1月29日金曜日

どうしてどの業種・職種にも一律適用なのだろう?

こんにちは。辻井洋行です。

年次有給休暇(年休)は、「労働者の請求する時季に与えなければならない」(労働基準法39条5項本文)。

 僕はまだこの労働基準法の趣旨を理解しかねているのですよね。どうして、すべての職場・職種に対して一律に適用されちゃうのかなと。

「法定の年次有給休暇付与日数が10日以上の全ての労働者(管理監督者を含む)に対して、年5日までは、使用者が労働者の意見を聴取した上で、時季を指定して取得させる必要があります。」違反した使用者には罰金が科せられるのです。

使用者に対して、労働者の権利である年次有給休暇を取らせる義務があるということと理解できます。しかし、それは、労働者の権利行使を使用者の都合で妨げている場合を想定しているのでしょう。

僕は、大学教員の仕事をしていますが、年休を取得する権利の行使を妨げられているとは思っていないし、むしろ、むりむり休みを取らされることの方が残念なのです。むしろ、働く権利を取られているようにも思います。しかたなく、年度末に固めて5日間、年休を申請することになりました。

法律の理念を大きくみれば、「職場の外の広い世界を見て、精神涵養に活かすように」ということなのかもしれないのですが、そんなことは国からいわれなくても。

どうして、この法律はどの職場・職種にも一律で施行されてしまったのでしょう。うーむ、分からない。。。



2021年1月28日木曜日

お香典は誰のためになぜ包むのか?

こんにちは。辻井洋行です。

きょうの僕が得た人生の学びは、「通夜・葬儀のお香典は、喪主に捧げるものである」 ということです。喪主は、通夜・葬儀の責任者であり、個人を送り出す当主です。その当主に対して、弔意を示すために自身の財産を取り分け痛みを共にするという意味がお香典にはあるようです。

これまでは、通夜・葬式にはお香典を包むものであると常識として飲み込んでいただけなのですが、改めて目的や意味づけを確認すれば、それぞれのケースに応じて、どのように用立てすることが適切であるのかを考えることができるようになりました。

40歳代も後半になって、こんなことを思っているのですから、お恥ずかしい限りですが、社会常識を意味を理解せずにそのまま飲み込んでしまっていることは、いくつもあることに気づきます。チコちゃんに叱られてしまうようなことなのですが、何事にも、いくつになっても学ぶつもりでいることの大切さを改めて感じました。

この応用問題として、結婚式にご祝儀を包むのにはどんな意味があるのか、ご祝儀を差し上げる相手は、本来誰なのか? チコちゃんに叱られないように、検めておくことにしましょう。



2021年1月27日水曜日

大学人には得意なスキルを使った教育活動に取り組ませることが世の中の幸せ度を引き上げる

こんにちは。辻井洋行です。

ここ1ー2年の間、産業はサナギの時代を過ごしているというイメージを僕は持っています。コロナ禍による経済状況の低迷、収入限の状況は辛い日々であり、業態転換を決断する企業についての記事を新聞で見つけることが増えて来ています。

こういう辛い時期においては、何か工夫を重ねていくしかありません。僕がいるのは、教育業界ですが、設定した学習達成目標をクリアするための教育手法を更新していかなければ、必要性を見失われてしまう将来が遠くないものと思っています。

大学教育は、探求機会を提供することに価値があるはずです。既に、中高にも探求科が設置され、先行的な教育手法が応用されていますが、大学の得意とする教育領域・手法であるといえます。なぜなら、大学の教員はそればっかりしているのですから、その方法を大学生にも応用するのが効果的な教育方法なのです。

ビジネスマナーや礼儀作法といった教育を大学教員に求めることは、期待の方向性が違っているとも思います。大学教員になろうと思った人が、そんなスキルに注力してきていると思いますか?それは、その道の専門家に大学生へのスキルトレーニングを託せばよいのです。

大学教員は、言い直すと、大学人としてのある分野の専門家は、その専門の世界を一歩でも前進させることを喜びとして生きています。その喜びのために、問題提起、仮説設定と検証の作業を毎日行っています。そのノウハウは、ビジネスにも応用できるものです。

大学教員に不得意な教育手法を実践させるよりは、その得意なスキルを応用した教育に取り組ませることの方が、世の中にとって生産的であり、ハッピーな人が増えるはずだと思っています。



2021年1月26日火曜日

世界の不思議に触れるためにアンテナの鋭敏さを保ちたい

こんにちは。辻井洋行です。

室内の鉢植えに元気を出してもらうために、しばらく庭へ出し、また室内で養生していると鉢に植えた覚えのない葉っぱが生えていたり、鉢の底からダンゴムシが這い出して来たりします。写真は、きっとカタバミの葉です。

きっと、室内だけで養生しているだけでは、こういうハプニングは起こらないはずです。ただ、ハプニングと思っているのは、僕だけで、植物や虫にとっては、日常のことなのでしょう。なぜ、そこにいるのだい?そこに住処があったから。

外界と接触すれば、こういうことは当たり前に起こるものです。自然界、すこし狭めて人間界で起こっていることは、僕たちが認知していないことの方が多いはずですから。そういう世界の奥深さに思いを馳せてみましょう。

いつもは室内にある鉢植えが、少しの期間だけ庭にあっただけで、そこにカタバミの種がどのようにして着床するに至ったのか。庭の中、あちらこちらに隠れる場所があるはずなのに、どうしてこの小さな鉢にダンゴムシ(達!)は住み着くことにしたのか。

この世に生きることの醍醐味は、きっとそのような不思議(Wonder of World)に出会い、その背景や理由に思いを馳せることでしょう。

水中めがねを付けて川底に潜り眺めたゴリキ(ヨシノボリ)のエラやヒレの動き、未明の林道でクヌギの蜜に集まるクワガタとカナブン、オオムラサキにオオスズメバチの蠢くようす。崖の下に隠れても必ず居場所を嗅ぎつけてくる犬の鼻のきき具合。

どれもこれもが、世界の不思議であり、僕の価値観の基底にあるものだと思います。室内の鉢に生えるカタバミに心躍る感覚は忘れずにいたいものです。

サンスベリアの鉢にカタバミ


 

2021年1月25日月曜日

お気に入りのタンブラーを長く使い続けたい

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、いつも使っているコーヒータンブラーについて書いてみたいと思います。

僕がコーヒーを飲み始めたのは中学生の時だったと思います。 元はネスカフェゴールドブレンドの赤ラベルで、デカフェのものでした。今では、幼なじみが京都で開いているコーヒーショップから、豆を取り寄せては、自分でハンドミルで擂ったものをドリップしています。

コーヒーをドリップするのは、毎日の習慣であり、出勤前にほぼほぼ毎日しています。そのコーヒーを入れて持ち出していくのがこのコーヒータンブラーです。買ったのはおそらく4年ほど前だと思います。近所のホームセンターで見つけました。

毎日、バックパックのサイドポケットに差し込んでいるせいか、塗装がはげてきています。それでも内側のステンレスは、いい感じのつや消しで気に入っています。表示してある通り、コーヒー専用に作られていて、飲み口に、1口分がうまい具合ににじみ出て、暑い場合は息を吹きかけ覚ますことができるようになっています。その上で、半日位はしっかり保温してくれます。

弁当箱など、毎年のように買い換えているのですが、このタンブラーは、ずっと使い続けています。パッキンが割れたとしても、メーカーに問い合わせて取り替え、できるだけ長く使い続けたいものです。



2021年1月24日日曜日

具体的な解決を形にすることでコロナ禍の喪を抜けていこう

こんにちは。辻井洋行です。

新型コロナ感染症について、広く一般に認知されるようになって、1月23日で1年が経つといいます。日本国内では、しばらく彼の国のお気の毒な事象と片付けられていました。僕自身も、2月中旬にはプノンペンへ仕事で出向いていましたので、まだまだ他人事であったわけです。

僕がプノンペン滞在中に、日本への帰航が拒絶されたという豪華客船がシアヌークビルというカンボジアの海の玄関口に寄港し、乗客たちがプノンペンのトレサップとメコンの川洲に経つ豪華ホテルに滞在することになったのを覚えています。その後の世界的な流行は、誰もの知る限りです。

どうも僕自身は、この手の大きな災害には、直接の被害を受けていなくても、感化される傾向があるようです。1995年の阪神淡路大震災、2001年の米国同時多発テロ、2011年の東日本大震災、2018と19の九州大豪雨、そして、新型コロナの世界的流行まで。特に、この1年間は、喪に服しているような気分で過ごしているように思います。

このコロナ禍は、まだ自身が罹患したことはないにせよ、感染予防を緩めればいつ罹患しても不思議ではないため、ずっと気の抜けない毎日を過ごしています。それはきっとストレスとして心理に働きかけているはずなので、それを緩和したり、やり過ごしたりするために、ウォーキングを日課としたり、青空の下に出たりすることが習慣になりました。陰鬱な気分を紛らわせるには、物理的な環境を変える必要が僕自身にはあるのでしょう。

また、このようなストレスは、仕事のパフォーマンスにも少なからず影響します。仕事のやり方に加わるいくつもの制限を乗り越えのは、工夫の見せ所です。いつまでも陰鬱に喪に服しているわけにもいかないでしょう。「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意思に属する。」というのは、アランの幸福論の一節です。むやみな楽観主義やポジティビズムは苦手ですが、自身の思う使命、生きる目的を軸に、一つでも多くの解決を具体的な形に仕上げていきたいものです。

Independence Monument, Phnom Penh


2021年1月23日土曜日

食べ物と同じで仕事にも取り組むべき旬がある

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、仕事にも旬があるということについて書いてみようと思います。

旬というのは、季節ごとの自然の恵みについていいます。特に、食べものについて、当てる言葉です。人もまた自然の恵みの一部であり、時と共に変化していきます。私たちは、自身が変わらないものと考える傾向があるようですが、日々変わって行っています。例えば、筋肉は1ヶ月で60%が、遅くても約200日で総入れ替えになるとのこと。期間の差はあれど、血液も骨も、どんどん入れ替わっていきます。

意識は、それらの時間を超えて残っているので、不変のように感じますが、意識を支える生理状況が変化しているのですから、当の意識も変化し続けていると考える方が自然でしょう。

読みたい本や心地よいと思う音楽、好きな景色、好みの食べ物もどんどんと変化します。仕事とすることもまた変化していきます。外的な要因もありますが、自身の興味関心の向きの変化に沿うことも少なくないでしょう。

絵描き、シンガーソングライター、文芸作家。彼らの作風は、変化を続けます。20代からキャリアをスタートした作家の作品は、長生きな作家ほど、年を経て作品の変化で受け手を楽しませてくれます。20代で制作できる作品、40代での作品、60代での作品、それらは同じ作家でありながら同じ作品ではありえません。作風に共通点が残りつつ、異なる作品として仕上がります。その作家には、それぞれの世代でしか残せなかった作品があるのです。

そう考えれば、今、この時に制作したいものがあるのであれば、その熱が冷めないうちに、やり遂げるべきです。いつか手を付ければよいと思っているうちに、自身がどんどんと別の存在に変化して行ってしまうからです。今この瞬間に、他でもない刹那に、集中して何かに取り組む必要があるのは、私たちに生理的な変化がすべからく生じるからです。

それゆえ、私たちの取り組む仕事には、旬があり、今を逃したら2度と取り組むことができなくなってしまいます。今現在の自身がどんどん置き去られていくと思えば全ての時間は貴重であり、より愛おしく思えてくるものでしょう。

NYCで牡蠣を食べたのは7月だった


2021年1月22日金曜日

ヤドリギ(宿り木)ハンティングのススメ

こんにちは。辻井洋行です。

ヤドリギは、宿り木と書き、他の樹木に寄生することで繁茂できる珍しい植物です。冬の時期は、宿主の葉が散りるので、青々としたヤドリギが顔を覗かせます。

ヤドリギは、小さな赤い実を付けるのですが、それを渡り鳥のヒレンジャクやキレンジャクが食べて、種を含んだフンを飛んでいった先の樹木に引っかけ、さらに、その種が樹皮に着床し、根を幹へ張ることで分布域を広げていくことができるのです。

この世の奇跡の象徴と呼んでも過言でないヤドリギの観察に最適なのは、この寒い冬の時期なのです。ヤドリギは、ケヤキやエノキ、ソメイヨシノなど、いろいろな樹木に寄生しています。遠目に眺めて、なにかこんもりと葉の散った樹木に青々とした葉が茂っているのを見かけたら、近づいてマジマジと見つめてみて下さい。

興味を持ってきたら、ヤドリギを見つけた場所をGoogleMapのマイマップ上にグリッドしてみましょう。それをいくつも重ねていくと、点が線となって現れて来ます。それは、ヤドリギの赤い実を食べるレンジャクの渡りのコースを表しているのかもしれません。

脳化された世間に住む私たちには、時に、ヤドリギのような世界の不思議に心躍らせる時が必要であると思います。ぜひ、この冬から、ヤドリギ・ハンティングを始めてみましょう!




2021年1月21日木曜日

臆病なプレーリードックでありたい

こんにちは。辻井洋行です。

物事を考えず、判断を他人任せにすることを思考停止というのだと僕は解釈しています。自分で判断せず誰かに頼ることは自身の選択権をその相手に譲ることに等しいです。面倒なことは考えたくない、答えの決まっていないことには関わりたくない。誰かが決めたルールを援用して目の前の問題を片付ければ、自分が責任を負わされなくて済む。

誰かが先導する運動に賛同し、誰かの主張を自分のもののように叫ぶのも、それほど変わらない。責任を他人任せのまま言われた通りに行動すれば、面倒から逃れられる。日々の面倒がさらに加算されることなんて耐えがたい。だからといって、今のまま、旗を振る誰かに人生の一大事を任せる行動ばかりしていくけば、その先に続くのは、隷属への道である。

臆病なプレーリードックは、草を食む時も姿勢を高く保って、外敵に目を配りいつでも退散できる準備を怠らない。隷属への道を進む私たちは、地べたばかりを見て安穏と草をはんでいるのかもしれない。責任から逃れようとする無自覚な行動は、不自由な未来の来襲を呼び込んでいるのかもしれない。

臆病なプレーリードックであろう。常に、身の回りへの注意を怠らず、生きていこう。

到津の森で会えるよ

 

2021年1月20日水曜日

これからの大学における教育カリキュラムのあり方について小風呂敷を遠慮気味に広げてみよう

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、これからの大学における教育カリキュラムのあり方について小風呂敷を遠慮気味に広げてみたいと思います。

僕が住んでいる福岡県は、1月初旬からコロナ禍による2回目の緊急事態宣言に入っており、2月の上旬まで続くことになっています。対面で、誰かと会って話す機会は相変わらず少ないままですが、緊急事態宣言だからといって、もっと減ったということはありません。

大学の教員として仕事をしているので、オンラインでの授業を行うことが増えました。担当している座学の授業は、オンラインの方が学習効果を引き上げられるのではないかと感じています。情報を伝達し、受講生自身が思考して、アウトプットを戻し、それにフィードバックするという流れは、オンラインツールを活用することで、より充実させられるようになりました。

一方で、工作をグループワークで行う授業は、1+1>2となるような受講生間の思考の相乗効果を発揮させる空間や用具の共有が閉ざされたことにより、学習効果を落とすことになりました。このように、空間を共有することによって、学習効果を発揮するような授業手法については、大幅な工夫が必要になっています。本年度については、個別ワークを動画で共有し、相互にインスピレーションを与え合うような試みに留まりました。

もっと大きくみれば、そもそも大学における学習目標と学習手法を改めて見直す機会をコロナ禍はもたらしているものと僕は考えています。情報伝達やスキル習得のためのドリル学習を大きな教室空間に受講生を集めて行う必要はないでしょう。教材は、メディアで十分提供することができます。ただ、その授業のために生身の教員が受講生と教室空間を共有する理由は、監視にしかないのではないだろうかと。

専門を学ぶための基礎知識は、高校のカリキュラムで十分に学ぶ機会を得ているので、大学は探求のための機会をカリキュラムの軸に据えて、教員はファシリテーターとして振る舞うようにする。授業は、大学生の探求を促進するためのサプリメントになるものを提供する。探求とは、課題を解決するための問い提起し、仮説ー検証を繰り返す営みです。その営みの思考法が身につけば、学問的な探求ばかりでなく、ビジネスの現場にも応用できるようになります。なぜなら、ビジネス界もまた仮説ー検証の世界であるからです。大学での探求の内容は様々ですが、共通するのはこの思考法の習得にあります。

対面授業はオンラインでのそれに勝るものであり、授業は対面での実施にこそ価値があり、授業料を支払う意味があるというのは、世の中の価値として一般的であり、全ての大学での学びを対面に戻そうという方針があります。ただ、この期を逃しては、これまでのオーセンティックな大学教育をむやみに温存してしまうことにもなりかねないでしょう。大学3.0、4.0への脱皮を目指すべき時が今です。

Chance of metamorphoses



2021年1月19日火曜日

過剰品質を避けることがエコにつながる

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、過剰品質を避けることがエコにつながるという事について考えてみたいと思います。 私たちはいろいろな製品やサービスを使いながら、生活を便利に、快適にしていくことを望んでいます。不便よりは不便でないことの方が良いに決まっています。何かの修行のために不便さを積極的に取り入れる事はあるにせよ、つまるところは、生きていくために、より長く生きていくためにできるだけのことを工夫しようとするのが、私たちの基本的な欲求であろうと思います。

ただしその欲求をずーっとずーっと長く続け、できれば自分たちの孫やひ孫の代の先まで続けていこうと思えば、今の私たちが、世の中にあるものを使い尽くして、後の世代の人たちが使えなくなってしまったら、申し訳が立ちませんよね。そういう気づきや考えを世代間倫理というのですが、なかなか頭の中だけで考える事は難しいものです。

むしろ、イメージの難しいことは、ゲーム性を持たせたり、知らず知らずのうちに行動できるような仕組みを作っていくことのほうが、効き目があるように思います。例えば、SDGsの中でも、資源の節約に考えるためのレッスン方法の一つとして、わたしの大学院の先輩がある専門学校で実践していたという授業の題材です。

それは、いろいろな雑紙を生徒さんに渡して、1つだけオーダーを出します。それは、「ここにある紙でメモを作ってください」というものです。生徒さん達はグループになって、いろいろなメモを作っていきます。きっちり紙のサイズを揃えるグループ、紙を閉じる場所にしっかりとテープや糊付けを行うグループ、表紙や台紙まで付けてブックレットを作るグループなどさまざまです。

生徒さん達が作ったメモ帳を、相互に評価してもらい、お互いにコメントを交わします。そこで一つの問題を提起します。「私はメモを作ってくださいとだけ皆さんにお願いしました。皆さんが作ったものは確かにメモであり、たくさんの工夫をしてとても使いやすいものになったようです。だた、そのためにどれだけたくさんのものを使ったでしょうか。例えば、メモ帳として最小限の役割を果たすのであれば、手のひらサイズにザッと切った紙の束の1つの角をクリップで留めたり、穴を開けて細くひも状にした紙を通しておけば十分かもしれないですね、と。」

このレッスンのメッセージは、私たちが作る製品やサービスに、必要としている機能を超えた過剰なものがないかを見直してみようというものです。顧客が求めたものに対して、過剰な価値の上乗せは、不要であるばかりでなく、他の目的のために利用する機会を奪ってしまっているかもしれません。もちろん商品として成り立たなければならないという常識や、場合によっては法律上の定めがあるかもしれません。ただ、「そもそも生活のために必要なことは何なのか」という目線から物事を考え直し、身の回りにあるものが、どれだけ過剰品質になっているのかを見直すことは、世代間倫理の観点から必要なことであるはずです。

これは、サンパウロに住んでいる私の大学院の先輩が実践したレッスンの例です。このようなレッスンを共有することで、個々人が基本的な物の見方を変えて行き、より遠くの世代までが生きながらえていける世の中を今から作っていきましょう。

サンパウロ大学のロゴ


2021年1月18日月曜日

プロは仕事が終わったらそそくさと引き上げて次に備える

こんにちは。辻井洋行です。

大きなイベントや感動的な出来事を経験するとなんとなく名残惜しくて、その場に留まっていたいものです。一つの仕事をやり終えた後にも、その余韻を楽しむ時間を持ちたい。感動はできるだけ長く心に留めたいものです。

しかし、プロ野球の試合を見に行った時にフト気づいたことは、選手たちが、勝っても負けてもそそくさとグランドから去って行ってしまうということです。競った試合に勝ったのであれば、もうちょっとグランドでゆっくり過ごしても良さそうなものです。あのバッティングはチームを救ったよね、あのホームラン性のボールの捕球はすごかったよね、とか選手が球場でゆっくり語らっても良さそうなものです。

どうしてそうなのかと思い直すと、プロ野球の選手にとっては、毎回の試合が百何十試合のうちの一つであり、日常であるからです。日常のことであるために、一つ一つの物事の感動が薄くなってしまっているとみることもできますが、あれば選手にとってプロとしての仕事なのです。仕事としてゲームをしているのですから、その結果について、毎回感動し、それに浸っている暇はありません。むしろ、直ぐにロッカーに戻って、ピッチャーの配球データを分析したり、打者ごとの打球方向を見直すといったリフレクションに忙しいはずです。

プロの仕事は、観客を魅了することなので、プレーで観客が魅了され、余韻に浸ってくれるのであれば選手冥利に尽きることでしょう。だから、次の感動を生み出すために、ゲームが終わったらそそくさとロッカーへ戻り、次への準備に取り組むのです。

そういうことを考えるようになって、仕事が終わったらそそくさと引き上げて、次へ備えることって大事なのだと思うようになりました。プロのメリハリの美学。たまのお楽しみはいいものだけど。

海で拾ったひょっとこ石


2021年1月17日日曜日

まずは表現することからはじめよう

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、また久しぶりに、書く事を決めずに、書き始めてみようと思います。書き始めてみると筆が載ってくるはずですが、そう旨くいくものでしょうか。自分がいつもやっている方法であれば、なんとなく旨く行きそうなものです。それは、これまでの経験があり、苦心しなくても、できるという自身がある程度あるからです。

しかし、そのように従来のやり方に頼っていても、発展や成長は期待できません。ある美術家のエピソードに、過去にやったことのあるインスタレーションは絶対にやらないという方針を持っている人がいるそうです。それは、いつも、常に崖っぷちに自分を追い込んで、そのギリギリのラインで、自分の身からにじみ出るものをアートとして表現するというスタンスなのでしょう。

書いてみたことのいないことについて表現するのは、不安を伴うし、勇気の必要なことです。誰かの評価を気にしていたら、そんなことは、なかなかできないものです。ただ、思い直せば世の中の人たちは、他人をいつも気にしていられるほど暇ではないのです。だから、何か書いてあるのをみても、「あー、またなんか書いてある」というくらいのものなのです。

そう思えば、書きたいという欲求があるのなら、どんどん書いて書いて、筆の進むままに書き連ねて行く中で、見つかったトピックを自分でまず楽しめばよいと思うことができます。まずは、表現することから始める。それで、いいのです。





2021年1月16日土曜日

何かをできるようになるには小さなことが始めてみよう

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、何かをできるようになるには行動するしかないということについて、考えてみたいと思います。

水に入らなければ、泳ぎは身につかないといいます。学んだことを体得するには、実践が必要でしょう。学ぶことが身体と不可分であることは、学びの経験が長ければ納得することではないでしょうか。目や耳で得た情報を元に、発話したり動作したりすることで表現する。入力は、出力を通じて確かめられ、調整されていくことになります。

たとえば、毎日のようにブログを書くという作業も、「毎日ブログを書くコツ」という誰かの説明をけばできるようになるわけではなく、実際に書き続けて行く中で、書けるようになっていくわけです。

また、実際に動作することによって、イメージと実際とのズレを失敗として実感することができます。その実感が、修正の動機付けとなり、どの動作の起点になります。動作しなければ、そのズレに気づくこともありません。

たくさん失敗すれば、少しずつこなれて来て、それと類似の動作にもある程度、対応できるようになります。それを通じて、私たちは、いろんなことを動作し、体現できるようになっていくわけです。

何かをしようと思って、いつまでも思案ばかりしている人は、まず動作してみることです。なかなか腹が据わらずに怖さで体が動かない人は、小さく始めてみましょう。それによって、得られるフィードバックが、動作できる身体を作り上げていくのです。


今日のケニーさん



2021年1月15日金曜日

コロナ禍は「かもしれない行動」を身につける機会になる

こんにちは。辻井洋行です。

わたしが住み仕事している福岡県にも緊急事態宣言がなされました。未だに、身近な人の新型コロナ罹患の実例を聞かないので、わたしにとっては、テレビやネットの話題であり、実感を持つことができていません。

この 感染症では、無症状の人が感染を広げてしまうことが指摘されています。私たち人間には、顕在的なリスクには敏感になり、潜在的なリスクには鈍感になる傾向があります。

安全工学における危険認知の考え方に、「危険検出思想」と「安全検出思想」があります。前者は、「危険が確認されない限りは安全である」という考え方です。この考え方では、見えない危険は存在しないものと見なされ、危険な状態を放置してしまうことになります。後者は、「安全が確認されない限りは危険である」という考え方であり、危険を取り除かない限りは安全で無いと見なすことになります。

例えば、 運転免許を取るときには、「かもしれない運転」をするように推奨されます。これは人が飛び出してくるかもしれない、車が曲がってくるかもしれないと思いながら運転することで、常に危険回避をしようという行動を推奨しています。 これは安全検出思想によるものです。

これを援用すれば、自分自身がコロナに罹患しているかもしれない、 手で触れるものにウィルスが付着しているかもしれないと考えることで、 他人にうつしてしまう危険や自分が罹患してしまう危険を回避する行動を取れるようになります。

ただ、「かもしれない」行動には、想像力が必要です。 私たちの心理には、正常性バイアスがあり、自分だけは例外だと思うものです。ただ、今の時期を利用して、「かもしれない」行動を習慣にすることによって、 そういうバイアスを乗り越え、様々なリスクを回避する態度を身につけられるようになるでしょう。



2021年1月14日木曜日

生活の中での違和感を大切にして問題解決思考を身につけよう

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、毎日の生活に違和感を持つことが問題解決思考を持つようになる上で大切であるということについて考えてみたいと思います。

日常生活の中で、何かおかしいなとかなんか嫌だな、面倒だな、もっとスムーズに物事を進める方法は無いだろうかと思うことがあります。ほとんどのケースで、私たちはなんとなくそれをやり過ごしてし、それを忘れてしまいます。私たちの日常は、いろいろな対応するべき物事で忙しく、1つのことにばかり構っていられないからです。

しかしそのちょっとした違和感の中に、現状を改善し、 物事を前進させる種が隠れているのです。物事が改善して、引っかかることが少なくなれば、その分の労力を別のことに傾けることができるようになります。解決するべき問題が減ると言う事は、その分他の生産的な活動に心を振り向けられます。

生活の中で違和感を感じたら、その原因・理由に思いを巡らせてみましょう。どうしてそうなっているのかと考えることによって、取り除くべき障害が明らかになります。その障害が大きなものであったとしても、いくつかのパートに分けることによって、一つ一つ取り組みやすい形に定義すれば、何とか取り組むことができるようになるでしょう。

違和感を覚え、問題が見つかったら、解決の方法を発案することができるようになります。発案した解決方法は、実際それが正しい解であるのかどうかを小さな取り組みをいくつか繰り返すことによって、検証していきます。検証の結果によって、解決方法の精度を高めていけば、それが結果として問題解決となります。

この問題解決は、広く他の人にとっても普遍的なことであれば、ビジネスになる可能性があります。ビジネスを生み出す人は、そのような生活の中での違和感をとっかかりとして、解決策を仮説的に提示し、その確かさを何度も何度も検証していく作業にいつも取り組んでいます。このような科学的思考方法は、分野によっていくらかの違いがあっても、普遍的であると思います。

問題提起は、違和感を持つことであり、それを機転として、解決策の仮説ー検証がはじまります。これを日常の思考習慣とするために、私たちのおなかの中にいる「なぜなぜ虫」をいつも活性化させていたいものです。

今日のケニーちゃん



2021年1月13日水曜日

仕事を通じて誰かのためにあることこそ

 こんにちは。辻井洋行です。

再び、緊急事態宣言となり、 通勤通学や、対面での仕事の実施が窮屈な期間に入りました。 従来の仕事のやり方や、学び方では文字通り窮屈な時期と言うことになりますが、ここは知恵を出し、工夫を重ねる機会であるとみなすこともできるでしょう。

やり方を変えることによって、これまでよりもより効率的で充実した仕事や生活を築きあげることができるかもしれません。例えば、ものづくりや建設の現場でも、AIゴーグルが徐々に普及して、経験者からの作業方法やコツを遠隔でも伝授や助言してもらえる方法が普及してきているようです。

まだそういった新しい技術は、対面でのやりとりには程遠いのかもしれませんが、 そのやり方に別の技術を組み合わせることによって、これまでのあり方に寄せていくことができるでしょう。 一方で、思考を変え AIゴーグルで伝えられないところは、別の方法で自学自習することを基本的な仕事の学び方として捉え直し、そのために必要なアーカイブを充実させていくという方向へ 舵を切ることもできます。

私たちは、基本的に保守的な性質を持っているので、新しい価値や手法に適応することを難しいと思いがちです。早い時期に 適用できる人や、フォローする人、 ずっと遅れてキャッチアップする人もいます。

大切な事は、人生において、仕事において、個々人が充実して生き生きと活動しているという状況を作り出すことです。 その状況によって、リーダーやフォロワーが存在し、世の中が前進していくことが必要になるはずです。優勝劣敗は一時的に生じるにせよ、それを固定化する事は、私たちの社会にとって良い状況ではないはずです。それぞれが特徴を活かしながら、他の人に対して貢献できる機会を作り続けることによって、 私たちは 幸せを感じながら生きていくことができるのではないでしょうか。

リモート状況での仕事は、従来と比べて、人の温かみを感じることが難しいようですが、そういった中において他の人の温かみの 一端を感じる心の感度を高めたいものです。




2021年1月12日火曜日

ソーシャルメディアは”適材適所”で使い分けたい。

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、ソーシャルメディア(SNS)の使い分けについて考えてみたいと思います。個人的な楽しみからビジネスの関係まで、ソーシャルメディアにはいろいろな特徴がそれぞれにありますよね。

私が使っているのは、Facebook、Twitter、LinkedIn、Instagram、ブロガー、はてなブログ、LINE、LINEブログ、メールマガジンのまぐまぐです。ここ最近、まとまった文章を書いているのは、Googleのブロガーです。こちらには、ライフハックやワークハックに関することを書いています。

このブロガーに書いた記事を、FacebookやTwitterに掲示するようにしています。ただし、Facebookには、もっと個人的な生活でのこと、特に、食事や観光についての記事をアップする人が多いので、ハック関係記事の利用者増にはつながっていないようです。むしろ、それらの記事については、Twitterからの反応の方が良いことがわかっています。Facebookは、そういう内容よりもむしろ、Instagram的な写真とのなじみが良いことがわかります。Instagramはおそらく、写真版のFacebookと言うことなのでしょう。FacebookがInstagramを傘下に収めた理由がよくわかる気がします。

LINEについては、仕事の関係の連絡手段が主な目的です。まだ私の身の回りには、スラックを使う人があまり見られないので、LINEを利用することになっています。特に若い人の場合は、Facebookのアカウント持ってない人が多いので、Facebook Messengerも使えないことが多いです。LINEを仕事用に使うことの難点は、私的な利用とディスプレイのレイアウトが混在してしまうということです。ビジネス利用とプライベート利用の窓を開けれるような仕様があると嬉しいです。


仕事関係での交流に最もなじみが良いのは、LinkedInです。研究や教育に関するハードコアな内容については、こちらが適しているはずなので、今後はそのような使い方を 進めていきたいと思っています。

一方で、メールマガジンは、登録してくれた方に一方的にメールを差し上げる方法です。今のところ、軽いライフハックやワークハックの内容を書いていますが、今後はこれを研究成果のブリーフィングや、研究成果をもとにしたリズム感への貢献の可能性について書いていくチャネルにしていこうと思います。

以上のように、いろいろなソーシャルメディアを使っています。使いかけて、挫折したnoteというのもあります。それぞれの特徴を学びとりながら、駆使しつつ、扱っている情報をそれぞれ適切な相手にお届けする工夫を重ねていこうと思います。


今日のケニーちゃん "背黄青"インコ


2021年1月11日月曜日

ラジオが教えてくれるもの、広げさせてくれるもの。

こんにちは。辻井洋行です。

わたしのラジオ習慣は、中学生の頃から始まりました。MBSヤングタウンに始まり、オールナイトニッポンといった深夜枠の番組にはまっていました。親の目を盗んで、ラジオにイヤホンをつけ、布団に潜り込んで聞いていたことを覚えています。

中学・高校の多感な時期に、世の中の最先端や人生のわびさびまで、すべてラジオが教えてくれたものといっても過言ではありません。世の中には、色々な出来事があり、色々な考えの人がおり、色々な音楽であふれていることを知る「見えない」窓口が、ラジオだったのです。

今も何か作業をするときには、必ずラジオやポッドキャストを再生しています。30年以上、色々な情報を耳から仕入れる習慣をつけて来たので、音声で情報を受けて、概念化する方法が形になっているのかもしれません。

ラジオは、ながら作業との相性が良いです。特に、単純作業をしているときは、ラジオが気休めになり、ペースメーカーになってくれることもあります。何か思索するときには、邪魔になるのですが、ルーティンワークを効率的に行うときには、補完関係にあるのでしょう。

また一方で、何か耳寂しい時に、それを埋めてくれるのもラジオです。中高生の頃の飽きたらなさ、子供故に、経済的な理由もあり、広げられない世界を手軽に広げてくれるのを手伝ってくれます。

いまは、スマホがそれを肩代わりしてくれています。ラジオもスマホに収まりました。radiko.jpは、日本中のAM-FMラジオを聞かせてくれるし、インターネット経由で色々な国のラジオ放送をきくことのできる時代になっています。

音声は、映像がないぶん、妄想の世界も膨らませてくれます。視覚が私たちに与えるイメージの制限を取り払うのは、音声にラジオなのかもしれません。ラジオやラジオ的なもの。それなしにわたしのこれからの時間も続かないでしょう。


今日のケニーちゃん


2021年1月10日日曜日

自宅で作るもつ鍋もなかなか旨い

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、自宅で作るもつ鍋について書いてみようと思います。僕は長らく、もつ鍋は専門店か居酒屋で食べるものだときめこんでいました。それが、結構自宅で簡単に作れることが分りました。

クックパッドのレシピを借りてきて、材料を揃え、調理を行います。具材で当然外せないのは丸腸です。1パック400円弱、スーパーで手に入ります。それでしっかり4人分の量があります。それに、キャベツ、ニラ、もやし、ニンニク、鷹の爪があれば充分でしょう。スープは、鶏ガラダシに、料理酒、みりん、砂糖、醤油、味噌を解いていきます。

丸腸は、薄力粉をまぶして飲み込み、ぬめりを取った後、熱湯で下ゆでした上で、スープに入れ煮込んで行きます。ある程度、煮込みが進んだら、野菜を投入し、柔らかくなったら美味しくいただきます。

以前、七輪で炭をおこし、丸腸を焼いてで食べたことがあるのですが、その時は、脂身がどんどんと流出して、火が通ることには、うまみが全て炭の方にとられてしまいました。涙 

その点では、もつ鍋ではうまみが全て鍋の中に残りますので、仕上げの雑炊にすれば、無駄なく食べきることができます。

もつ鍋の専門店には、秘伝のタレがあったり、新鮮な材料の調達ルートがあったり、また、お膳の据え上げまで全てやってくれるという楽チンさがあります。自宅で調理するときは、全て自分でする必要がありますが、慣れてくれば、下ごしらえや味付けに、ひと手間かけたり、好きな材料を加えたりして、どんどんとアレンジをしていくことができます。

これまで、もつ鍋は1度作りましたが、3度目4度目には、どんなアレンジをしようかなと今から思案しています。


今日のケニーちゃん


2021年1月9日土曜日

ニュースアプリさえあれば読み切れないほどの記事を毎日仕入れることができる

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、毎日のニュースの仕入れにはニュースアプリが便利ということについて話してみたいと思います。

僕は仕事柄、職場で日経新聞を取ってもらって読んでいます。それから自宅では朝日新聞を定期購読しています。経済紙については、研究室での情報共有が必要であるし、大学生の就職支援に生かせる情報が載っているので、特に必要であると考えています。自宅で撮っている朝日新聞は、社会一般の情報収集のために読もうと考えているものです。

それ以外にも、スマホのニュースアプリを重宝しています。主に使っているのはスマートニュースです。スマートニュースは、ニュースソースごとにタグづけがされていて、とても便利です。まず、スマートニュース自体のタグづけでニュースの分野が区切られています。また、新聞社ごとに、タグを起こして並べることができます。また、新聞社以外にもいろいろな雑誌を読むこともできます。

このように、ニュースアプリを使っていると、1日では読み切れない数のニュースが提供されるので、どれを読むか精査をすることが必要なくらいです。一方で、日本の新聞社のオリジナルのウェブサイトに行くと、会員登録をした上で、無料会員の場合は月20本までといった制限をかけていることが多いです。

一方で、ニューヨーク・タイムズや、BBC、ロイターなどでは、記事に広告をつけてあるパターンが多く、ほとんどの記事を無料で読むことができるようになっています。それらの新聞社は、世界中に読者がいるので、マイクロな広告収入でも、大きな収益を得られる構造になっているのでしょう。一方で日本の新聞社は、基本的なマーケットが日本語圏なので、購読料のサブスクリプションモデルの方が、安定した収益を上げるのかもしれません。

ただ、これだけニュースアプリで読み切れないほどの記事が毎日のように提供されていると、わざわざ新聞社の購読会員になって、有料記事を読もうというインセンティブは薄くなってしまうでしょう。もちろん独自の取材記事については、大きな価値を持っていますが、それはその新聞社の記者のファンの範囲にとどまってしまうのかもしれません。

いずれにせよ、ニュースアプリさえあれば、世の中の大きな流れを掴むためのニュースの仕入れには事欠かないわけです。ただ、新聞社や雑誌社が倒産してしまえば、ニュースアプリに記事を提供する会社がなくなってしまいます。記事の提供体制やマーケットに応じた最適な課金モデルが、確立していくことを望むばかりです。


今日のケニーちゃん


2021年1月8日金曜日

手作りのものに価値があるというのは普遍的なことなのか

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、手作りの物の価値について考えてみたいと思います。世の中では割と広く、手作りの物が重宝されるようです。食べ物や家具、マフラーやセーターなどの織物などなど。手作りのご飯で相手の胃袋をつかむなんていう言葉があるくらい、特に料理については高い評価が与えられているようです。

ただし、それは誰が作るかということや作る人ともらう人の間の関係性によって、価値のあるなしが決まってくるという面があります。とても近しい人が作るご飯は、手作りであるとより嬉しいものです。また有名な料理人が作ったコース料理についても同じことがいえます。しかしそれほど近しい間柄でない人が手作りでした料理を勧められて、嬉しく食べることができるかと問われれば、それは時に否かもしれません。

近しくない人の手作りの料理に対して、結構な抵抗感を覚えるのに対して、有名なレストランや料理人であればそうでもありません。知らないおじさんの握った寿司は食べたくありませんが、同じおじさんでもいる有名な職人が素手で握った寿司であれば、美味しく食べられます。その納得感はどこからくるのでしょうか。ブランドでしょうか。信頼感があるとすればそれは何によるのでしょうか。

手作りのものという意味では、手書きの文章も価値を生み出すものの1つです。自分の家族や親類が手書きで書いた文章は、とても価値があるものと感じられます。手書きの手紙や年賀状が到着するとそれはなかなか嬉しいものですよね。有名な作家が書いた手書きの原稿は、とても重宝され、博物館に所蔵されるものもある位です。私たちはその手書きの原稿から、それを描いた作家のリアリティーに思いを馳せるわけです。しかし、一方で、見ず知らずの無名の人が書いた手書きの原稿を読まされることには、抵抗感を感じます。むしろそれが活字になっていた方が、まだ目を通す気になる気になるものです。

手作りと言う事は、そこには作り手の身体性が投影されているわけです。その身体性に対して喜びを感じたり、気持ち悪さを感じたりする感覚を私たちは持っています。気持ち悪さというのは、ノイズへの拒絶感なのかもしれません。ではなぜ、普通のおじさんにはノイズを感じ、職人には感じないのかということについても考える必要があります。

例えば寿司の衛生面と言うことで考えてみましょう。職人は十分に訓練を受けているため、衛生的に寿司を握っていると言うことを期待できます。その一方で、普通のおじさんは、そのような訓練がないため、不衛生な寿司を握っているかもしれません。つまり、同じおじさんでも、職人がこれまでに経てきた訓練の履歴が、同じおじさんが醸し出すノイズを覆い隠してしまうのかもしれません。

また有名な作家であれば、次がどれだけへたくそで読みづらくても、それに触れることが読み手の価値になっています。しかし同じようなへたくそな文字で、一般の人が書いた文章を読む気にならないのは、作家が醸すような価値を、一般の人が持っていないからと言うことになるのでしょう。そのような醸し出す価値がないのであれば、せめて活字と言うノイズの少ない情報伝達の手段で整理してほしいというのが私たちの感覚と言えるのかもしれませんね。

いろいろぐだぐだと書いてしまいました。手作りのものには価値があると私たちは一般的に公言しますが、それは時と場合によるということを改めて考えてみました。大学生のころは、こういうつまらない話を延々と下宿やファミレスでやっていたものです。笑




2021年1月7日木曜日

支払い方法に物理的な実感を持たせる工夫でネット通販を使うときの無駄遣いを減らそう

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、ネット通販の危うさについて考えてみたいと思います。

それはセキュリティの問題ではなく、ネット通販サービスを使う私たちの心理の危うさについてのことです。ネット通販は、すでに当たり前になっており、画面を見ているとクリックしている人はたくさんいると思います。私自身もアマゾンドットコムでものを買う機会はとても多いです。それは、実際の店舗に行って在庫がないことがよくあり、在庫の入荷待ちするよりも、次の日に届くサービスの利便性が圧倒的に高いからです。例えば、本なら、入れたいものですよね。究極的には、Amazon Kindleのように、読みたいと思えば、すぐに読めるという価値を提供しているサービスが残っていくのでしょう。BaaS; Book as a Service

失礼、今回はネット通販利用の危うさについての話でした。笑 

ネット通販利用の難しさは、ついつい簡単にものを買ってしまうことです。実際に店舗に行って、いざ実際の商品を目の前にすれば、高額な商品であれば、いくらか躊躇してしまいます。その躊躇する気持ちとは、本当に必要なのかどうかという思案です。そして、そこで財布からその金額の現金を持ち出して支払うとなると、さらに躊躇する気持ちが大きくなります。

現金には物理的な実態があり、それが目の前でなくなってしまう喪失感を味わうことになるからです。数え切れないほどの現金をいつも持ち歩いている人にとっては、2-3000円が減ったとしても、自分の財産が少なくなったと思うことはあまりないかもしれません。

一方で、クレジットカード、電子マネー等の決済方法では、同じように金額が書かれていても、なくなるという実感を得る事は簡単でないし、論理的に考えなければ、腹落ちして捉えることがなかなか難しいものです。ゆえに、ついつい短絡的に購入する判断をしてしまうことになります。

それでは、どうすれば、ネット通販でものを買うときに慎重になることができるのでしょうか。まず1つ目は、ものを買うときのルールを決めておくことです。まず欲しいものが、画面上で見つかったとしても、実際にそれを買うまでには1週間 の時間を取るというようなマイルールを決めておくことです。それが高額なものであればあるほど、時間をかけるというルールを作っておきます。

さらに、クレジットカードや電子マネーの、支払い履歴を毎日見直すと言う習慣をつけると言うことです。それによって、その月にいくらのお金を使ったのかと言うことを金額で知ることができます。クレジットカードを1枚を2枚 に制限しておくことで、手間が簡単になります。クレジットカード外車によっては、まとめアプリがあって、複数のクレジットカードを登録しておけば、支払い履歴を見直すことができるようになっています。そこに書いてある金額を見直せば、簡単にものを買う気持ちを押しにくくなります。特に私たち人間は、得をすることよりも損をすることに対して敏感に反応するという心理を持っています。それを逆手に取るなら、自分がどれだけ現金を減らしているかと言うことを自分に知らしめる方法を持つ事は、無駄遣いをなくす有効な手段になるでしょう。

ちなみに、現金で支払うことにしている人も、財布にたくさんのお金を入れておかないことで、大きなお金の支出を心理的に防ぐことができます。財布に3000円しか入っていなければ、3500円のものが欲しくなってもすぐに買うことができないですよね。 ATMへ現金を下ろしに行く間に、欲しいと思っているものが実際に必要かどうか、ただのストレスによる思い込みに過ぎないのではないかといったことを考え直す時間の猶予が生まれます。

ネット通販は、便利である一方、支払い手段に物理的実体が感じられないので、意識的にそれを顕在化させる仕掛けを自分で作ることにより、使いすぎの危うさから身を守ることができると思います。お金の使い過ぎに悩んでいる人がいたら、ぜひ参考にしてみてください。




2021年1月6日水曜日

普遍的な価値を大切にしながらも変化に沿って生きる事を日々の活動のコンパスにしたい

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、変化の中でどのように生きていくかという事について、考えてみたいと思います。

世の中の変化は常に起こっています。ただしそのスピードには強弱があります。それは相対的なことですが、ここ1-2年の変化は、とても早いものであると私自身感じていますし、そのような論調はあちらこちらで聞かれます。

大きな変化として、人の物理的な移動がこれほど制限された年は、過去数十年の間には見られなかったことです。2018年頃は、大移動の時代といわれ、世界中で、観光やビジネスの目的のために飛行機や船に乗った人たちが、往来していました。それが、シャットダウンされ、ほんの少数の移動に制限されるようになっています。

その一方で、モノや情報のやりとりは、これまでになく盛んになっています。その状況はおそらく、これからドンドンと加速していくのではないでしょうか。人が移動できなくなっても、生活に必要なものや嗜好品はどうしても必要です。

これまで人から人へ、店から人へ、ものを移動するには購入者がその場合一定お金を支払いものを引き取ってくるということが通常でしたが、それが物流に置き換わって 行っています。また、仕事上の会議や打ち合わせ、ちょっとした会合は、オンラインでのやりとりに移行しています。それであのオンラインサービスを提供する事業者の業績はだんだんと上向いてきており、正しい便利な技術もどんどんと応用されてきています。

教育の現場でも、対面ですることにより、学習効果が抜群に上がるものであれば、感染のリスクを少し背負ってでも、1つの場所に集まって直接やり取りすることに価値があります。一方で、大きな場所で一方的に教師が話して聞かせるような授業は、むしろオンラインでの実施に置き換わっていくでしょう。教育の現場も、演習や実習と座学で最適な方法を仕分けることによって、高い学習効果を上げることができるはずです。さらに進めば、教育の現場も、共通の内容と学習者個人にカスタマイズしたコンテンツの提供をうまく組み合わせ、個々人の成長を支援する仕組みが、より細かに緻密に組まれていくことになります。

私たちはまだ、2019年1月以前の記憶にすがって生活しているので、いかにすればその当時の生活や仕事のやり方に戻すことができるかを思考しがちです。しかし、すでに状況は変わっており、それを支える技術もどんどんと普及してきています。そのような変化は、今回の感染症がなければもっとゆっくりしたものであったかもしれ無いのですが、それが短い時間の間に起こったので、消化不良のまま過ごしているわけです。

大きな変化の中にあっても、普遍的な価値とはよりよく生きるということであるはずです。ただそれを実現していく状況が、急激に変化してきています。普遍的な価値を大切にしながら、変化に適応していく事を日々の活動の頼りとするコンパスにしたいと思います。




2021年1月5日火曜日

文字情報を読み込むのは大変だけど読み手に消費の自由が託されている

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、文字情報の便利さについて考えてみたいと思います。

ソーシャルメディアの主戦場は、文字情報を基本とするブログや、Twitter、Facebookなどから、InstagramやTikTok、ポッドキャスティングなど、画像や映像を主としたものに移ってきています。画像や映像、音声は、視覚や聴覚から直接的に入ってくる情報なので、私たちは主体的に読み込まなくても、それらを楽しむことができます。

一方で文字情報は、主体的に読み込んでいかないと、頭に入って来ません。それが面倒だと言う感覚は、本の虫でなければ、誰にでもあるでしょう。本に書かれた漫画も、セリフを読んで行かないと、内容を全て楽しみきる事は難しいですよね。もちろん作画だけを消費することは可能なのですが。

画像や映像が重宝されるのは、コンテンツの面白さももちろん、情報取得の手軽さも、理由といえます。例えば、本を読むのは労力を要しますが、電子ブックリーダーに音声で読んでもらえば、意味内容の世界や情景を思い浮かべることができます。

ただ画像や映像、音声は、それを再生するための時間を要します。特に映像コンテンツは、それが収録されている時間だけ付き合わなければなりません。忙しい人は、映像コンテンツをのんびりと眺めて何時間も過ごす事は難しいわけです。

一方で、文字情報は、自分のペースで内容を読み込んでいくことができます。本の内容によっては、目次をまず読み込んでから、内容を大きく把握し、章や節の単位で適度に読み飛ばしたりするといった調節をすることが簡単です。これは、情報を読み込むための時間の調整が、受け手の裁量に任されているということです。

こういうことって、行列のできる人気料理店のメニューを時間をかけて消費するのではなく、重箱にぎゅっと詰め込んでおいてくれたら、食べる方で調整して好きなものから摘まんでいくというような消費のイメージでしょうか。

このように考えれば、文字情報の利便性が違って見えてくるかもしれませんね。ただし、画像や映像の消費になりきってしまうと、文字を読み込む主体性を鍛えるチャンスを逃してしまうのですけれど。



2021年1月4日月曜日

個々人の行動はコントロール可能に見えて広く社会を見渡せばうまくいかない。

こんにちは。辻井洋行です。

今回は、私たちの行動結果が同じにはならないという事について考えてみたいと思います。

学校の試験や技能検定、会社の営業成績などなど、同じような業務に取り組んでも、その結果は、大抵の場合に正規分布します。正規分布というのは、最も多い点数(偏差値50)を中心に、なだらかなカーブを両辺に向かって伸ばしていくような釣り鐘型のグラフを描く状況のことです。

人の行動や社会的な現象は、このグラフの中に収まるような傾向を示します。もちろん、対象とする人の数が少なければ、グラフの 偏りは生じることになります。ほとんどの人は、このグラフの真ん中あたりに位置する行動の結果を示します。

一方で、極端な結果和の人たちは、グラフの両辺に位置する結果を示します。成績の結果が極端に良い人はグラフ向かって右側に、反対に極端に悪い人は左側に位置します。来週には大学入学共通テストがありますが、テスト成績偏差値の高い人低い人は、このグラフの右側か左側に偏っているということになります。

新型コロナ感染症対策については、マスク着用と手指消毒を行うことが有効であるとされています。また大人数での会食を避けるといった行動も同様です。これらの行動がどの程度徹底されているかということについては、標準的な人たちは、この正規分布の真ん中あたりに生きて一致しているはずで、感染を結果的に免れているということになるでしょう。

ただし感染症対策についても、これは社会現象なので、どの程度徹底しているかという個人の行動については、取り組み程度の強弱があるはずです。誰よりも偏執的に取り組んでいる人たちはグラフの右側に、ほとんどノーガードの状況の人は左側に寄っているということになるでしょう。

日本は、自由主義の国であり、法律によって個人の行動を制限し罰則を与える事柄の範囲を小さくしている国です。法律で制限を行えることにより、グラフを全体的に右寄りへシフトさせる事は可能ですが、そのためにはそれなりの社会的コストを伴います。それは個々人の行動の不自由さであり、経済的コストでもあります。行政ではその選択をしようとしているわけですが、その良し悪しについては、私自身が評価し慎重に考える必要があると思います。

厳しい行動制限を行うような法律が施行されることにより、感染予防の行動の底上げにはなるはずですが、必ずその行動の強度については、釣り鐘型のグラフで表される結果を生じることになる事も踏まえておく必要があるでしょう。その原因は、個々人の価値観の違いや、受け取っている情報量の違い、また条項に反子対する理解や、感度の違いによるものです。そういった違いが、個々人の行動の差を生み出すことになります。

個々人の行動はコントロール可能のように思えて、大きく社会として見渡せば、それがなかなかうまくいかない。人もやはりまた自然の一部なのだということを改めて感じさせられます。



2021年1月3日日曜日

年賀の方法は様々になったけど続けて行きたい習慣です

こんにちは。辻井洋行です。

今回は年賀の扱いについて、考えてみたいと思います。 新年のご挨拶には、いく通りかの方法があります。直接お会いしてお慶びを申し上げること、年賀はがきを差し上げること、電子メールを差し上げること、Facebookなどのソーシャルメディアに書き込むこと、MessengerなどのSMSを差し上げることなどです。

ここ数年で、年賀はがきのやりとりは、ずいぶんと減りました。私自身、毎年120通ほどの発送がありましたが、今年については70通未満となっています。きっかけとして、先方から葉書のやり取りを止めてメール等に切り替えましょうというご提案があったり、宛先が不明になってそれっきりになったり。また、住所は分からなくてもソーシャルメディアでつながっていたり。いろいろですが、葉書でなくても良いという相互了解があれば、簡略化して構わないものと思います。

葉書の発送枚数が減って良かった事は、宛名書きまで、手書きで丁寧に仕上げることができるようになったことです。枚数が多いと、どうしてもプリンターに頼ってしまいがちになります。宛先を簡単にかつ正確に手書きするためのコツは、 郵便番号は間違いなく記入し、その上で、住所は町名以下から書き始めることです。7桁の郵便番号は、政令市であれば区の後の「町」までをカバーしているので、県や市を書かなくても届きます。また、手書きする時に文字数が多いと紙面が手狭になってしまうのですが、なるべく文字を少なくすることで、余裕を持って大き目に書くことができます。

けっこう手間取るのは、予定していなかった葉書への対応です。私は、年賀状の裏書きを筆を使って書いていて、何枚か余分を備えることにしているのですが、その予想を上回って新規の葉書を頂くことがあります。筆を使うには、葉書が普通紙でないと上手く墨汁がのらないので、インクジェット紙では間に合いません。それで、ゴメンナサイの一言を添えて、電子メールを差し上げることもあります。

年賀の扱いはいろいろであり、葉書の場合の書き方にも色々な工夫がありますが、気は心と申します。肝となるのは相手への思いであり、日頃の感謝の念ですよね。また、葉書一枚、メール一つで、自身の無事を伝えることもできます。この習慣は続けて行きたいものです。




2021年1月2日土曜日

アウトプットは過剰かと思うくらいでインプットとのバランスがとれます

 こんにちは。辻井洋行です。

お正月も2日目になると、アウトプットしたい気分が強くなってきます。それは、インプット過多の生活になって生きているからです。意識的にアウトプットをすることによって、インプットがよりスムーズになってきます。インプット過多になると、かえって追加することが難しくなってきます。

例えば、いろいろな情報集めているばかりでは、頭の中がドンドンと混乱していきます。積極的にアウトプットしていかないと、せっかく集めた情報が頭の中から消えてなくなっていってしまいます。それはもったいないことですよね。ですから、アウトプットを形にすることにより、次のインプットがスムーズに頭に入ってくるようにする必要があるわけです。

アウトプットの方法はいろいろあります。簡単なのは誰かに話してみることです。人に話すことによって、頭の中で情報が再編集され、自分自身の知識となっていきます。その他にも、ブログのように文字に書いていることや、日記にすると言うのも良い方法と思います。

食事なども同じで、アウトプットしていないと、インプットが楽しめなくなります。朝晩に、ウォーキングや軽いジョギングを行うことによって、夕方のビールの一杯が何よりも美味しく感じられます。特にアウトプットもなく、食事の時間を迎えたとしても、美味しく感じることはできないでしょう。また、運動することによって、お通じも良くなるので、お腹の中がスッキリし、次の食事がより美味しく感じられるようになります。

このように考えれば、アウトプットを意識して生きていくことで、かえってインプットを充実させることができるようになるということになります。インプットを意識しすぎて、息がつまるような気持ちになっている人は、ぜひアウトプット思考に切り替えてみてください。きっとインプットをより充実させることができるでしょう。

生きていてアウトプットが過剰になることはありません。アウトプットは、すればするほど自然にインプットがやってきます。息を吐き切れば、自然と息を吸い込めるように。アウトプットプットをしなければ、それに慣れてしまいます。アウトプット過剰と思うくらいで、ちょうどバランス良いのかもしれないですね。






2021年1月1日金曜日

習慣づけには辛くても初めの一押しから初めてみよう

改めて、新年おめでとうございます。辻井洋行です。

寒い時期は、気がつくと部屋の中でじーっとしてしまいがちになるので、積極的に動くように意識づけるようにしています。習慣を作るには数日を要すといいます。習慣付いてしまえば、あとはそれに身を任せるばかりですが、それまでは、意識的に体を動かさざるを得ません。

私たちは、生来、体力を温存するべくゆったり過ごすようになっているようです。ただ、それは摂取するエネルギーが希薄だった頃の習慣なので、現代の生活にはマッチしていませず、過剰なカロリー摂取により生活習慣病を引き起こしかねないので、意識的に動くようにする必要があります。

動くには、散歩に出かけるのが手軽ですが、家の中にも体を動かすチャンスはいくらでもあります。布団の上げ下ろし、調理、洗い物、洗濯、洗車、風呂やトイレの掃除などなど。いつもは、気づいた時にしかやらないことを毎日の作業にすることで、体を動かせるし、家の中がいつもキレイに保てます。

習慣づくりのコツは、条件付けといいます。たとえば、食事を終えたら洗い物をすると決めておくことで、行動に移せます。そのうち、食事の後に洗い物をしないと気持ち悪く感じることになります。

習慣づけは、身について仕舞えば、その前のことが分からなくてなります。体重が増えてしまう時は、そのための努力を習慣づけてしまっていることがあります。それから脱するのはなかなか辛いものです。慣性をはたらかせるには、初めの一押しが必要です。辛い一押しですが、兎にも角にも初めて見るしかないですよね。






謹んで新年のお慶びを申し上げます -令和3年元旦-

こんにちは。辻井洋行です。

読者のみなさま、新年おめでとうございます。本年もどうぞご愛顧のほど、よろしくお願い致します。本年は、丑年であり、私は"年男"となります。もう一巡すれば還暦かと思えば、どれだけ大切な日々になるのかと身が引き締まります。

新型感染症によって、不自由な毎日が当面続くようです。このようなやっかいな状況は、様々な形で、これからもやって来るでしょう。同じ時代を作っていく皆さん、私たちは、それに対応し、上手く適応して生き抜いていく強さを身につけたいものです。大切な物事はきっと泥の中に埋もれていて、直ぐには見つからないといいます。それでも、気長にやっていくしかないから、仕方ないです。

いろいろな気づきを得る一年でありますように。