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2012年2月26日日曜日
2012年2月25日土曜日
2012年2月24日金曜日
歌い踊り、世界を活気づけていこうじゃないか。
年末や年度末は忙しいというが、僕にとっては、2月末が大抵忙しい。
特に、学内の書類提出、卒論や修論の仕上げ、成績の提出、自分の論文の提出など、
課題が山積になるのである。
3月は、むしろ、そういう仕事から解放されて、自由に時間を作ってやりたいことに
取り組める貴重な時期になる。
今朝は、久しぶりに徹夜した。もうろうとしながら、原稿をメール添付で提出し、
朝食を食べないまま、(テーブルロールをかじりながら、)出勤し、
9時半からSUW戦略的水・資源環境リーダー事業の修了者ブリーフィングに参加して、
いくつか質問させて頂いた。どの人も、Linga Francaである英語で、
ご自身の2年間の活動のサマリーを紹介した。評価委員の佐藤さんと貴戸さんからは、
リーダーシップやブリッジ人材になるということについての質問が飛んだ。
6名のプレゼンターは、それぞれに自分の考えを述べていた。とっても偉かった。
お昼休みには、徹夜明けでズレたバイオリズムを回復するために、30分間の
ウォーキングにでた。春の空気が心地良かった。昨晩の春一番を告げる誰かの
Tweetは正しかったと思う。これから三寒四温で進むの通例だが、僕の中では、
Spring Has Come!である。待ちに待っていた季節。冬の蓄積を解放する季節。
歌い踊り、世界を活気づけていこうじゃないか。
2012年2月23日木曜日
思いついたことは出来る。
(この記事は2月23日午前のTweetを編集したものです。)
教師の最大の存在意義は、教師なしで自学自習できる人を育てることだ。教師がいなくなることが、教育の最大の成果である。さようならできるまで、教師の仕事は続くのである。
大学生で中学生対象の塾のアルバイトをしていた時に、「僕の仕事は君らが塾に来なくても勉強できるようにすることなんや」といったけど、彼らはぽかーんと聞いていた。
同じ中学生たちが、わざわざ塾にまで来て遊んでばっかりいるときには、「何しに塾にきてんのや、お母ちゃんに言われて来てるんやったら、もう止めとけ止めとけ」といったことがある。それを塾長が横で聞いていたらしく、あとで叱られた。
けっきょく、そういう人を仕上げていく方法論にたどり着いていないということは、自分の力量が足りないことの証拠であり、工夫の余地がたくさんあるということだ。つまりは、自分の伸びしろがいくらでもあるということである。やり甲斐があるねえ。
もちろん、自分自身が学び続けて、成果を出し続けていなければ、周りの人をどうこうというわけにはいかないのです。そう思うと、やるべきことに優先順位はあっても、その際限はなく、いくらでも増えていくのです。
ああ、誰かがいつかTweetしていたけど、「実名でTweetしているとどんどん『いい人』になってしまう」。おっしゃる通りでした。
でも僕は、匿名でTweetしたりなんかしません。むしろ、その制約を乗り越えてやろうと思うのです。・・・そうか、だから僕は経済的に独立性を確保することが大事だと思っているのか。などほど。
他人の看板で商売していては、好きなことは語れんとです。とどのつまりはそういうこと。語れん自分を鞭打ちながら、ちょっと工夫しながら、しっかり働こう。
言いたいことを言いたいと突き詰めていけば、どこかの職場に生活を依存してることは、不自由の源泉である。気づいている人は、その制約の中でどれだけ話していいかという線引き問題を解いている。ただし、その制約は、無力な自分にとっての命綱であって、簡単には手放せないものである。
しかし、その命綱を手放し、誰も担保してくれない自由を手にしている人には、あこがれを無性に感じるのである。ただし、彼らが抱えている不安が、あこがれだけで置き換えられるほど軽くたやすいものでないことは、想像に難くない。
でも僕は、そういう世界を知ってしまった。それが良い人生だと思ってしまったのだから、そちらへの飛躍を目指さざるを得ない。尊敬するピカソの助言のひとつ「思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ。」
さて、考えることはこれくらいにして、手を動かしましょう。
教師の最大の存在意義は、教師なしで自学自習できる人を育てることだ。教師がいなくなることが、教育の最大の成果である。さようならできるまで、教師の仕事は続くのである。
大学生で中学生対象の塾のアルバイトをしていた時に、「僕の仕事は君らが塾に来なくても勉強できるようにすることなんや」といったけど、彼らはぽかーんと聞いていた。
同じ中学生たちが、わざわざ塾にまで来て遊んでばっかりいるときには、「何しに塾にきてんのや、お母ちゃんに言われて来てるんやったら、もう止めとけ止めとけ」といったことがある。それを塾長が横で聞いていたらしく、あとで叱られた。
けっきょく、そういう人を仕上げていく方法論にたどり着いていないということは、自分の力量が足りないことの証拠であり、工夫の余地がたくさんあるということだ。つまりは、自分の伸びしろがいくらでもあるということである。やり甲斐があるねえ。
もちろん、自分自身が学び続けて、成果を出し続けていなければ、周りの人をどうこうというわけにはいかないのです。そう思うと、やるべきことに優先順位はあっても、その際限はなく、いくらでも増えていくのです。
ああ、誰かがいつかTweetしていたけど、「実名でTweetしているとどんどん『いい人』になってしまう」。おっしゃる通りでした。
でも僕は、匿名でTweetしたりなんかしません。むしろ、その制約を乗り越えてやろうと思うのです。・・・そうか、だから僕は経済的に独立性を確保することが大事だと思っているのか。などほど。
他人の看板で商売していては、好きなことは語れんとです。とどのつまりはそういうこと。語れん自分を鞭打ちながら、ちょっと工夫しながら、しっかり働こう。
言いたいことを言いたいと突き詰めていけば、どこかの職場に生活を依存してることは、不自由の源泉である。気づいている人は、その制約の中でどれだけ話していいかという線引き問題を解いている。ただし、その制約は、無力な自分にとっての命綱であって、簡単には手放せないものである。
しかし、その命綱を手放し、誰も担保してくれない自由を手にしている人には、あこがれを無性に感じるのである。ただし、彼らが抱えている不安が、あこがれだけで置き換えられるほど軽くたやすいものでないことは、想像に難くない。
でも僕は、そういう世界を知ってしまった。それが良い人生だと思ってしまったのだから、そちらへの飛躍を目指さざるを得ない。尊敬するピカソの助言のひとつ「思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ。」
さて、考えることはこれくらいにして、手を動かしましょう。
2012年2月22日水曜日
リニューアル
ブログをリニューアルすることになった。
何事もご破算から再開できるのは、何か嬉しいことである。
これまでの流れを気にすることなく、新しいことに取り組める。
「私たちは、忘れることで、生きて行くことができる」のである。
さあ、今日から何を書いていこうか。
何事もご破算から再開できるのは、何か嬉しいことである。
これまでの流れを気にすることなく、新しいことに取り組める。
「私たちは、忘れることで、生きて行くことができる」のである。
さあ、今日から何を書いていこうか。
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