(この記事は2月23日午前のTweetを編集したものです。)
教師の最大の存在意義は、教師なしで自学自習できる人を育てることだ。教師がいなくなることが、教育の最大の成果である。さようならできるまで、教師の仕事は続くのである。
大学生で中学生対象の塾のアルバイトをしていた時に、「僕の仕事は君らが塾に来なくても勉強できるようにすることなんや」といったけど、彼らはぽかーんと聞いていた。
同じ中学生たちが、わざわざ塾にまで来て遊んでばっかりいるときには、「何しに塾にきてんのや、お母ちゃんに言われて来てるんやったら、もう止めとけ止めとけ」といったことがある。それを塾長が横で聞いていたらしく、あとで叱られた。
けっきょく、そういう人を仕上げていく方法論にたどり着いていないということは、自分の力量が足りないことの証拠であり、工夫の余地がたくさんあるということだ。つまりは、自分の伸びしろがいくらでもあるということである。やり甲斐があるねえ。
もちろん、自分自身が学び続けて、成果を出し続けていなければ、周りの人をどうこうというわけにはいかないのです。そう思うと、やるべきことに優先順位はあっても、その際限はなく、いくらでも増えていくのです。
ああ、誰かがいつかTweetしていたけど、「実名でTweetしているとどんどん『いい人』になってしまう」。おっしゃる通りでした。
でも僕は、匿名でTweetしたりなんかしません。むしろ、その制約を乗り越えてやろうと思うのです。・・・そうか、だから僕は経済的に独立性を確保することが大事だと思っているのか。などほど。
他人の看板で商売していては、好きなことは語れんとです。とどのつまりはそういうこと。語れん自分を鞭打ちながら、ちょっと工夫しながら、しっかり働こう。
言いたいことを言いたいと突き詰めていけば、どこかの職場に生活を依存してることは、不自由の源泉である。気づいている人は、その制約の中でどれだけ話していいかという線引き問題を解いている。ただし、その制約は、無力な自分にとっての命綱であって、簡単には手放せないものである。
しかし、その命綱を手放し、誰も担保してくれない自由を手にしている人には、あこがれを無性に感じるのである。ただし、彼らが抱えている不安が、あこがれだけで置き換えられるほど軽くたやすいものでないことは、想像に難くない。
でも僕は、そういう世界を知ってしまった。それが良い人生だと思ってしまったのだから、そちらへの飛躍を目指さざるを得ない。尊敬するピカソの助言のひとつ「思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ。」
さて、考えることはこれくらいにして、手を動かしましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿