「人生には意味がある」と「人生には意味はなく強度だけがある」という人生論争がある。前者に立つ人は、後者を認識が足りないと笑うが、果たしてそうだろうか。人生の意味は、意識的に見いだしたものではなかろうか。それが意識的であるということは、自らにそう思わせているに過ぎないのではなかかろうか。根拠のない日々を生きる不安から逃れるために、自ら根拠を作り出しているのではないだろうか。この世に生きる種で、生きることの意味を云々言っているのは、ヒトのみである。ヒトのみが、生きることの意味を持つべき特別な存在であるというのは、すこし乱暴ではないか。
ヒトが、ナマコから進化したのであるとして、その頃から生きる意味を意識したのだろうか。おそらく、意識は脳が記憶を獲得してからのことだろう。そう思えば、人生の意味は脳が生み出したものということにはなるまいか。記憶がなければ、人生の意味を問うことがそもそもない。生物種には、生態系の中に役割がある。それが生きる意味であるということもできるだろう。しかし、ヒトがいなくなったとしても、生態系にとって、それは一時の攪乱に過ぎないのであって、そのうち、改めて最適化を実現するのみである。この世に生きる種としてのヒトの意味は、その程度のものであるとして、それでも人生に意味があるというのには無理がある。
私たちが、母から生まれたのは、一つの偶然である。いわば、受け身の生を行き始める。それが、そのうち主体的な個人であることを求められるようになる。個人は、英単語でIn-dividual、すなわち、不可分の存在であり、主体的に思考する他に代え難い存在であるという考え方がある。これを西洋近代的自我という。デカルトの「我思う故に我あり」という言葉は、ここでモノを考えている私という存在は疑いようがないということである。その主体的に思考する私が、空洞であっては仕方がない。何か芯があらねばらならい。この立派であるはずの私の中身が空っぽでは話にならない。その中身が、見当たらないのあれば、見つけださなければならない。自分探しは、この自我の概念に伴って必要となった。その芯こそが、生きる意味であり、存在価値であると思うことで、私たちは生の根拠のなさから解放され、不安を払拭することができるのである。
私たちは、記憶を獲得して、他の生物と比べて有利に生きられるようになった見返りに、生きることの根拠のなさという不安を背負うことになった。そういう不便な存在なのだろう。一方で、「人生には意味はなく強度だけがある」という認識は、生命としてのそもそもの存在性に則した人生観であるとは言えまいか。近代以降の人間観には反するものの見方ではあるが、より生命の根源に近いように思える。この立場の違いは、生きることの根本をどこを始点として組み上げればいいのかを問うものである。従って、文頭の前者は後者を笑うことはできず、むしろ、自らの心の頼りにしている人生の有意味さの根拠を問い直す鏡として後者を扱うべきだろう。
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