この歳になると放論はみっともないという気が働いてしまう。何か書くには、責任が伴うものだとも。それは、なんとなく言霊のようなものを感じているのかもしれない。このような電子データにも、肉声や手書きの文字と同じく発する者の魂が宿ると当人が思う。同じくそれを受け取る側もそう思う。それは、共同幻想なのかもしれないけど、相互のやり取りが断片的な形であるとしても成立している場合には、そう思わずにはいられない。だから、書くことに何か特別な思いを書き手として持ってしまう。そんなこと偉そうに四の五のしているうちに、誰かをニヤリとさせる粋なフレーズでも捻り出してみやがれってんだね。
0 件のコメント:
コメントを投稿