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2013年7月29日月曜日

この夏はクマゼミに

 週末の朝の日課といえば、セミ取りである。この春から住み始めた場所の近くには、サクラとトウノカエデが並ぶ遊歩道があり、そこでは無数のセミたちが迎えてくれるのである。主な種類は、クマゼミである。その名の通り大きな体で、発音器官を振るわせてシャシャシャシャ、ジージージーと朝から遠慮なくやっているのである。それをこちらも遠慮なく虫取り網で捕まえていく。もうこの暑い夏が始まってからのことなので、随分と捕獲の方法も心得てきた。その心得とは、虫取り網は振り回すべからずということである。セミを見つけたら、そーろっと網を構え、ゆっくりとセミに近づけ、これまたそろーっと被せるのである。そうすると異変を感じたセミが飛び立ち、まんまと網に飛び込むのである。先週当たりから、この心得に従うことで、捕獲率が高まって、どんどんと虫かごが満たされていくのである。
 セミをたくさん採っているうちに、セミというのは、どんな形をしているのか、興味を持つようになったので、水性クレヨンで描いてみた。緑色のものがクマゼミで、茶色のものがアブラゼミである。この辺りには、この2種類しか見られない。これからは、もうちょっと踏み込んで、習性や生態についても調べてみようかな。
 自分が住んでいる場所を知ること。セミからもきっと学ぶべきことがあるのだろう。この夏は、クマゼミにはまりそうである。




2013年7月25日木曜日

それぞれに

研究室の中だけでも学生たちの研究テーマは、実に様々である。世の中には、もうやり尽くされてしまったテーマばかりのように思うが、そうではないようである。人の持つ関心は本当に多様で、なぜそんなことに関心を持つようになったのか、そのルーツを訪ねるだけでも随分と興味深いものである。中にはやっつけ仕事のものがあることも否定できないのだが、自身の半生からにじみ出てくるような研究テーマもなくはない。きっと、それは自分の半生の謎を解く作業に取り組むようなものである。人は、自分が何者であるのか、なぜ生まれで、ここに生きているのかという意味を知りたいものである。人がそれぞれに依って立つ生きる意味はそれぞれ。研究テーマもまた、それぞれである。

2013年7月24日水曜日

2人のプロフェッショナルに会って

 専門性の深さと教養の広さが、豊かに生きる上で大切であるということは、ある程度一般の同意を得られることであると思う。そのポートフォリオをどのように造形するのが、生き方であるということになる。昨日は、2人のプロフェッショナルに会うことで、そのことを改めて思わされた。
 また、生きることの目的は、もっと個人的な思いでよいとも考えさせられた。大きな社会ビジョンを描くことは、自身の外的な世界に対するメッセージとして必要である。ただし、なぜをそれに取り組むのかという動機は、自分自身のエゴに基づいてもよいように思う。自身がどのように評価され、社会の中で位置づけられたいのか、人からどのようにほめられたいのか、どの程度の対価が欲しいのか。DesireやGreedに類する欲求も、自分を走らせるための大切な動力源になる。
 心の底からわき出る欲求を大切にした。そのような思いに駆られた一日だった。

2013年7月23日火曜日

皿倉山からの眺望

 北九州には皿倉山がある。九州山地の北の果てに位置し、その眺望は、筑前国から豊前国へ至る標高662メートルである。
 もうこの夏の暑さからは逃れられないと諦めかけた週末に、そうだ標高の高い山に登って避暑を楽しもうと帆柱ケーブルに飛び乗った。出発から、10分程度で9合目にたどりついた。涼やかな風が頬を撫ぜた時には、ああ、このようにはまだ極楽といえる場所があったのだ心が弾んだ。さすがに、日差しは肌を刺すものの24℃の山頂気温は、避暑には十分である。気分よく、写真をたくさん撮った中の1枚がこれである。パノラマ故に少し凹型になっているが、八幡から洞海湾、高塔山を望んでいる。雨雲が同じ目線にあり、いまにも降り出しそうな気配であったが結局降らずじまいであった。約10年ぶりの眺望である。これを得られるのであれば、また何度もやって来たいものである。
 

2013年7月21日日曜日

はじめる前から決着してた

 今回の参院選は、投票前から決着していたように思う。誰もが予想した通りの結果が素直に出ている。意外性も何もなく、ただ、ああそうなったのかというばかり。人はもちろんのこと、動物は本来的に保守的な存在である。なんとかなるなら変わらない方がいい、これまでの通りがいい。そういうものである。それが行き過ぎて、また、不祥事が重なると変化を作ってくれそうな方へと目が移る。でも、それがなかなか答えを出せないとなれば、また、元の木阿弥、これまでの通りでええ、となるのである。

 人間には、不確実な将来のことに対して、その意味を過小評価してしまう癖がある。それはそうだ。いつもらえるか分からない将来の分け前を待つよりも、いますぐに確実にもらえる分け前の方が、少なくてもいいということである。その分け前を約束してくれる船の底が抜けているとしても、大きな船はなかなか沈まないのだから、まあまだなんとかなる。今もらえる分け前をよこせとなるのが、普通の人の思考なのである。将来世代への責任、世代間倫理を考えよう。そんなきれいごとよりも、いま食べる飯をなんとかせいという。僕たちは、そんなことをいうやからは、近視眼的なものの見方しかできない、教養のない仕方のない人たちだと鼻で笑ったりする。

 さて、いつまで笑っていられるのか、今回の選挙結果は、私たちこそ、そういう人たちだということを露呈させてしまったのだから。このどうしようもない私たちは、これからどこへいこうというのだろうか。

 もちろん、選挙は勝負ごとである。自分の応援した政治家が勝った側なのか、負けた側なのかにかかわらず、政権与党を応援するべきだろう。もちろん、手放しにではない。批判的に、時には、生産的な意見を提示しながら、政権が示したことをどのように形作っていくのか、関心をもつ必要がある。

 ところで、今回は、初めてのネット選挙解禁の場となった。LINEでは、各政党が情報を提供していた。そのLINEで、どのよう文面で情報が提供されているのかをみれば、各政党が、LINEユーザー世代の有権者をどのように見なしているのかがよくわかる。これによって、投票所へいった若者が増えたとか減ったとか。評価・判断は据え置くが、これが実態だということ。僕には、これでいいとは思えないのだけど。