僕の好きな下らない工作は、スパークリングワインの
コルク栓と金具カバーで、人形を作ることです。
こうするとなんとなく、ドレッドヘアーの
レゲーシンガーに見えませんか?
なかなか並べて飾るほど増えないのが難点です。
僕の好きな下らない工作は、スパークリングワインの
コルク栓と金具カバーで、人形を作ることです。
こうするとなんとなく、ドレッドヘアーの
レゲーシンガーに見えませんか?
なかなか並べて飾るほど増えないのが難点です。
大切なものほど、撮影するとピンボケして写ってしまうことが多い。今回は、野いちご摘みの時に、ザトウムシを見かけて、しかもそれらが野いちごを食べているところだった。
これは、ザトウムシの生態解明の一助になるものと思い、 iPhoneのシャッターを何回も切ったのだが、ピントは被写体の向こう側に当たってしまっていた。これでは、 ザトウムシが実際何をしているのかがよく分からない。取り直そうにも、同じシーンに出会えるとも限らない。
なんでもったいないことをになってしまったんだろうか。大事なことだと思って、 急いで取り組んだときには、何か抜けていることが僕の場合は多い。
「急いてはことを仕損じる」と言う言葉があるが、まさにこのことを言うのだろう。
1日の終わりにブログを書いている。6時に起きて、あれこれやって、17時間が経った。過ごしてみるとそんなにも時間を経たのかどうか、実感がない。そういえば、子どもの時に、家の近くの川原で石をめくっては、魚釣りの虫を捕っていたことも、つい最近のことのように思う。ほんの1時間前のことも、40年以上前のことも、以前のことを思い出のは、一瞬のことなのでである。40年前のことを思い出すために、40年はかからない。そんなに時間が掛かるのでは、思い出してしまう前に、何を思い出そうとしているのかを忘れてしまいそうである。40年前の川原でのことも、頭の中では現在であるということなのだろう。僕は、すぐに引き出すことのできる何十年も前に得た記憶に支えられつつ、常に過ぎゆく現在を生きている。いつもは、そんなことさえ気にもせずに。
At the end of the day, I write this blog. 17 hours have passed since I woke up at 6:00 a.m. and did several things. I don't realize how much time has passed since I woke up at 6:00 a.m. and did this and that. It seems like only recently when I was a child, I used to turn over stones in the riverbed near my house to catch bugs for fishing. It does not take 40 years to remember what happened 40 years ago. I guess that means that what happened at the riverbank 40 years ago is still current in my mind. I am constantly living in the present, supported by the memories I have acquired decades ago, which I can easily retrieve. Usually, I don't even care about that.
柔道は7年くらい続けて、そのあと辞めてから35年くらい経つので、もう経験者だとは言えないと思う。それでも、やっていた時に身について、忘れないことがある。それは、間合いを取ることの大切さである。組み合う相手と呼吸を合わせつつ、一瞬のズレを生み出して懐に入り込む。最小限の力で、相手を制する所作である。ただ、制することは、柔道の大事な教えてはなく、それを形にするための自身の心身を自在に操ること、また、その困難さを会得することこそが本質なのだろうと思う。柔道は、武術であり、試合の勝ち負けを決するのだけど、その結果は、自身を知るための手段に過ぎないはずである。こんな気づきを得てはいるものの、日常生活の中で、実を結んでいるかといえば、そうでもない。話す相手との間合い、適切な発話の選択など、改善の余地はいくらでもある。まあ、そういう余地の存在に気づけるようになったのは、子どもの頃やっていた柔道なのだろうと感謝している。
自分の誕生日は、父母に感謝を伝える日にしています。父母が居たから、自分がいることを改めて強く意識するようになったのは、自分が人の親になってからのことです。子どもは、親に感謝などせずに育っていくものだけど、そのターニングポイントになるのは、どの時なのではないだろうか。自分が五十路に入れば、父母が達者で、長生きしてくれることを願うばかり。ただ、運命の日が先延ばしになることを祈るばかり。離れて住んでいれば、なおのことである。父母には、子どものことから、自分のことより、周りの人のことを先にするように言われて育ってきました。そのことは、今も染みついていて、日々の行動の第一原則になっていると思います。世の中は、多様な人で成り立っており、自分もその一員として、その行動原則を大事に思いながら参加できていることを改めて誇りに思います。
自分を甘やかす9日間が、そろそろ終わる。この間のマーベラス・ミセス・メイゼルからの学びは、「歩みを止めるな。舞台に立ち続けろ。」ということである。仕事は、放電の時間であるから、誰にでも充電の期間が必要である。放電しながら充電し続けることもできるが、それは、差し引きマイナスの放電過多の傾向になる。仕事を離れて、何もしない数日を過ごせば、初動で手足の動くことが、きっと性に合った仕事なのだろうと察しを自身でつけることができる。つまらないのは、これまでにやってきたことを縮小再生産するようなことである。常に、未経験のことを取り込んで、経験をアップデートしていくことが、自身のご機嫌を良好に保つ数少ない策だと思っている。それは、身の回りの人達を勢いづけることにも繋がるのだろう。