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2012年12月31日月曜日

万物は流転する


(2007年6月6日のブログから)

日々私たちは流転する万物の中に生きている。
私たちが織りなす人間関係や広くみれば社会や
文化も常に流転し続けるものである。

変わらないと思える自分自身も日々流転する
存在である。ぼーと一日天井を眺めて過ごして
いるとしても、すべての感覚器から情報を取得し、
学習を続けているのである。

そう思えば、身の回りの関係性が変わるという
ことを許して、精神の平穏を保ったままで、
受け入れることができるはずである。

変わり続ける自分を棚に上げて、周りが変わる
ことを嘆いたり批判したりすることは、
フェアではないように思える。

人は変わる、世界も変わる。
変わると考える私の理性もいずれ変わるのだろう。

2012年12月17日月曜日

ゆく河の流れは絶えずして

人の世は、無常なりといえども、どうあってもよいと投げてしなうべきではない。かくありたい、よりよくありたいという強い思いで日々を生きること。そのような蒼氓の形づくる世が無常を表する。この切なさから、私たちは逃れることはできない。


ーーー
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。
(鴨長明;方丈記 冒頭より)



2012年12月13日木曜日

あなたのために買い付けて来ました。


 洋服の販売店がある。小さな商店街に立地する婦人服の販売店である。従来は、店主がこれまでの実績に沿って、自身の感覚で買い付けをしてきたのである。それが売上を減らして来た。店頭に並ぶ婦人服は、季節ごとに値札の価額を下げて、バーゲンセールでほとんどを投げ売りしてしまう。それでは、仕入コストを回収するのがやっとであり、新しく品揃えを充実させるなんていう展開はとても考えられない。

 たとえば、次のような工夫はできないものだろうか。来店者と話して、どんなテイストの洋服が欲しいかを聞いてみる。形状、色柄、素材、価格などなど、来客者の要望を聞きとっていく。その要望に沿う服を店主が買い付けにいくのである。個別の来店者が欲しいと思う服をプロの目で買い付ける。欲しいものが、欲しい価格で提案されれば、来店者はそれをその価格で購入してくれるだろう。もちろん、店舗には、提案的な洋服を買いそろえておいてもよい。ただし、受注買い付け販売による販売を収益の中心に据えるようにしていく。

 購入者の希望する価格によっては、買い付けコストを掛けすぎない工夫は必要となるだろうが、「あなたのために買い付けて来ました。」ということは、来店者の購買経験を充実させ、次の注文につながるのではないだろうか。「こんな服を探しているのですが」と店で聞いた時に、「そういうのは当店では扱っていないのですよ」と返されることがある。店舗のドメインは、経営戦略の軸となるものであるが、季節ごとのバーゲンセールで売上のほとんどを得ている店舗があるとすれば、売買構造を根本的に見直してみる価値があるのではないだろうか。



2012年12月4日火曜日

Blogger app

I've found this Blogger app this evening, I didn't know before. It must make me easy to upload blogs from know. I love SNS services to update communication with guys coming over distance, but to hold my thinking and arrange it for a long time, the blog has advantage, I believe. Anyway, app is just a gadget to write,it never write instead of me. Write and write!

2012年11月29日木曜日

ランドスケープはそこの暮らす人々の鑑である



一昨日から昨日まで、Landscaperランドスケーパーの佐々木知幸さんが、北九州に来てくれた。直接会うのは3回目のこと。大学で僕が担当する授業に特別講師として来て下さったのである。

元々は、ツイッターでヤドリギ探しのやり取りを通じて知り合い、富田くんの紹介で直接お会いしたのが、今年の7月のことである。ベトナムの経済発展の最中、地域の樹木にはどのような影響が及んでいるのかを見に行きましょうというのが、ご一緒頂いたきっかけである。

僕自身は、植物について、全くの素人である。佐々木さんには、訪問したハイフォン市で、街路や会社の敷地内、郊外の鉱山などで、どんな植物があるのかを見て、これからどんな調査をしていくのかを見定め頂くのがお願いしたことであった。

今回の授業で、佐々木さんが掲げたテーマは、「企業とランドスケープの、これから」である。ランドスケープとはどういうことか、それを見ていくことで何が分かるようになるのかを解いて下さった。印象に残るのは、「ランドスケープは、そこに暮らす人々の鑑である」というメッセージである。

例えば、ファッションは、私たち自身が選択して身につける人為的な造作である。どんな服装を選ぶのかは、私たちが周りの人にどう見られたいのか、(どう見られても構わないということも含めて)という意図を反映している。

その人の内面を直接見ることはできないが、服装を見れば、それを間接的に感じることができる。それは、会社の外観や街並みについても言えることである。この補助線の引き方が秀逸だった。若い聞き手にとって、話を整理しやすくするメタファーだったと思う。

ランドスケープは、その街の風景であると同時に、その街に住む人がどういう内面を持ち、文化を育んでいるのかを表す鑑なのだということ。また、ランドスケープをデザインするということは、その街に住む人達が、自分たちがどのように見られたいのかを画策するということなのである。

工場立地法で、ある一定規模の事業所は、植栽をすることが義務付けられている。北九州の歴史ある事業所では、何十年も前からの植栽が基本になって、工場地においても地域の植生を形作って来ている。

洞海湾の周りを佐々木さんと訪ねていくと、人工的な植栽が歴史を重ねる中で新たに自生した植物を含めて更新していることに気づかされる。いつもなら、見過ごす風景に、引っかかることができるようになる。周囲の見方が変わる体験だった。

ランドスケープは、人為的な営みによるものである。一方で、人為の及ばない自然物を取り込みながら成り立つはずのものである。しかし、近代化の中では、人為の外にあるものをなるべく排除して、人為で成り立つものを選択しようとしてきた。

もちろん、人に動植物を愛でたい気持ちがあるからこそ、それを取り入れてきてはいる。洗練された街並みに、申し訳程度に植栽された樹木は、その気持ちの表れと言えるだろう。ただし、これからも同じでよいのかどうか。

宅地開発のための大造成作業は、何十年前から同じ方法論で進められる。樹木を皆伐し、山を崩して更地にして区画整理をしてから、申し訳程度の植栽を加える。そんな方法論は、もう時代遅れなのではないか。

そのような旧来の方法論で開発られた土地を私たちが好んで使いたいということであれば、それが私たちの内面を表しているということなのだろう。

もちろん、人間も自然から生じた自然物である。ある自然物が他の自然に干渉するということはありふれたこと。ただし、その干渉によって、新しい秩序が生まれるということを忘れては行けない。それが、人間にとって有利な秩序とは限らないからである。

以前、所ジョージさんが、交通ルールで「登りが優先」では登りの車が偉そうだから、「下りが遠慮」と表示した方がいいと言ったのを思い出す。僕は、人間なので、人為的に快適さを担保した空間で過ごしたい。だから、「自然優先」というつもりはないが、もうすこし人間が自然に「遠慮」するべきだと思う。

住宅や工場を造る時には、そこにある自然をご破算にするのではなく、すこし遠慮しながら進める。自然の中に「間借り」をしながら生きる術を構築していくべきである。それを1つの主義としながら、経済性との接点を見つけていくことが、新しい時代の英知として必要だと思う。

私たちが、「空気を読む」ことを得意とするなら、その延長線上で「自然を読む」こともできるのではないだろうか。これからの「森の生活」を構築していくこと。すでに取り組んでいる人は、佐々木さんも含めて何人もいらっしゃるだろう。僕は、彼らの英知を学んで行きたい。

この半年に、ランドスケーパーである佐々木さんとのやり取りを通じて考えたことを書き連ねてみました。感謝感謝であります。




2012年10月22日月曜日

お気を付けて

 思えば、長くブログをアップデートせずに過ごしたものである。それは、僕のネット上での関心が、ツイッターとフェイスブックに傾いてしまったからなのかもしれない。また、まとまって何かを書き残したいという気持ちが高まらなかったからである。あれやこれやとスケジュールが立て込んでくると、細切れの時間を使おうという気にはなるものの、腰を落ち着けて何かを書こうと思えない。もちろん、僕なんかよりずっと忙しい人がごまんといて、長い文面を残しているのだから、それは言い訳にはならない。それでも、忙しさの感じ方は、人それぞれのもの。僕自身の自力を高めていくしかないのである。
 今朝からお腹を中心に体調が思わしくない。ここのところ夜更かし気味で、睡眠を軽んじているのが原因であれば、すこし多めに寝ればよかろう。とにかく、今日は一日、様子を見よう。けだるさを忘れるくらいに集中して取り組めば、しらぬうちに、具合はよくなっているかもしれぬ。食事を軽めにして、できれば昼も少し歩いてリフレッシュしたいものである。積み残している仕事もあるので、こういう日こそ他の雑事を置いておいて、そちらに力を傾ければよい。具合のよくない時には、そこに自分の体があることに改めて気づかされると誰かが言ったが、今日はその日のようである。
 とにもかくにも、これから1週間を走り抜けるために、大切な月曜日がやってきた。どちら様もご機嫌良う。お気をつけて。

2012年6月22日金曜日

飛行機を眺める

飛行機の気配を感じると反射的に空を見上げてしまう。
なにか気が高ぶり、機影を確認したくてたまらなくなって
しまうのである。

子供の頃、奈良の山村で育った僕にとって、飛行機は、
遙か上空を細い雲を引いていく羽虫のような存在だった。
音を聞くことはほとんどなく、飛行機雲だけが、
その存在を知らせるシグナルだったのである。

それが、毎日のように頭の上を掠めて飛んでいく。
もちろん、そういう状況を気楽に眺められる場所ばかりが
この世のすべてであるとは思わない。

ただ、僕にとっては、子供の頃からの憧れが、
毎日のように間近で眺められることが幸せなのである。

訓練機に混じって、ブルーインパルスが練習しているのを
見かけることがある。もともと宮城県の松島にベースメント
を構えるはずが、3.11以降は、ずっと福岡で活動している。
きっとパイロットや運営スタッフのご家族は、宮城にいるの
だろうに。きっと、不便な生活の中で、毎日活動して
いらっしゃるのではないか。

ブルーインパルスが、松島に戻るのは、当該地の復興が
成された時なのだろう。それを僕は願う。ただし、その時は
ここで毎日のようにブルーインパルスの機影を追うことが
できなくなるときでもあるのだけど。

2012年6月21日木曜日

分かってるのなら

ブログに何かを書き留めようという日とそうでない日との差がある。
そんなことでは、とても「物書き」にはなれないのだけど、そうである
のだから仕方がない。「物書き」には、きっと、
書かなければ自分の人格がどうにかなってしまうという衝動に駆られている人と
書かなければ生活が成り立って行かないから書くという人がいるのだろう。
それでも、書き続けているという意味においては、僕にとって尊敬に値する方々である。

書くという行為は、不思議なもので、必要に駆られてでも、何かを書いているうちに、
筆がのってくるということが起こる。
キーボードをどんどんたたいている内に、余計なことまで書いてしまう。
書くことが習慣になれば、その「のってくる」ということが、
どんどん増えてくるのだろう。その習慣を作るには、まずは意識的に書き連ねていく
しかないのだと思う。

書くことがあるときも、無いときも、変わらず原稿用紙に向かうこと。
それが「物書き」への路なのだと思う。それを怠るようでは
思うようにはなれないに違いない。日々の習慣が、将来を築いていくのだとすれば、
自分に必要と思うことをやり続けるしかないのである。
「分かっちゃいるけど」ではなく、「分かってるのなら」なのである。

2012年6月11日月曜日

公開講座を終えて

週末の土曜日は、大学の公開講座を開いた。
第5回は、環境問題と産業・企業-中国の場合-
というテーマで、私と宋くん、敖くんが登壇した。

受講者の多くは、熱心な年配の皆さんで、
頷きながら、ほーっと声を上げながら、
聴講して下さった。大学の一般の講義では、
見聞きできない反応である。

宋くんと敖くんにとって、このような講座は、
いつもの聞き手という立ち位置を話し手に
切り替える機会になる。
一般の方々に、分かりやすく丁寧に話すという訓練になる。

今回は、5回シリーズの内の1コマのみだった。
きっと5コマ開講すれば、ワークショップや
受講者による発表など、工夫をこらせるかもしれない。

受講者の方から、「自分たちも、北九州に学ぶ留学生に
街の産業発展と環境問題の歴史を知ってもらうために
何かしないとね」という有り難い言葉を頂いた。

大学と市民、産業が連携して学生を育む空間を
作っていけるならどんなにいいだろうか。
そのような場所は、学生にとってまたとない学びの
機会を得られる地域ということになるだろう。

2012年6月9日土曜日

大学生協理事の仕事

いま勤めている大学の生協で理事を務めて3年目になる。
具体的な活動は、月に1回の理事会への出席で、
月ごとの活動と会計報告を伺い必要であれば
意見を申し述べるという程度のものである。

昨年度は、色々と都合が重なり出席がままならない
状況が続いた。ほとんど貢献はできなかったと
いってよい。

この理事会は、会社でいう取締役会に当たる。
供給高や剰余高で、食堂や販売店の営業業績を
毎月見せて頂く。予算と実績の開きや前年度
実績とのギャップなど大きな数字の開きがあれば、
その理由は何かを問うのが理事の役割である。

それでも所見で資料を見渡して、有効な意見を
出すのは簡単なことではない。それでも、
短い時間で、理事としての役割を発揮することに
集中する真剣勝負の瞬間である。
貴重な時間を割いて、出席していると思えば
なおさら有意義な時間として過ごしたいと
思うものである。

むろん、現場で実際の運営をなさっている
職員の皆さんの知見が、店舗を支えていることには、
疑いの余地はない。それでも、理事という役割を
生協がおいているのであれば、その職責に応えられる
ように、力を尽くしたいと思う。

2012年6月8日金曜日

堪忍袋の緒が切れるのも

仕事上、相手への不満に苛まれることは少なくない。
どうしてこうなんだ、なんでちゃんとやらないんだと
頭に血が上り、沸騰直前に達する感を持つ経験は、
誰にもあるだろう。どれだけ、気の長い人だって、
そういうストレス源と長々と付き合っていたら、
堪忍袋の緒も切れるというものである。

そういう思いをするのは相手に非があるからだと
決めつけてしまいがちであるが、果たしてそうなのだろうか。
相手にそういう行いをさせている自分自身の
説明や段取り、場合によっては、相手への動機付けの
方法に足りないところはないだろうか。

様々な愚痴や批判も、その原因をずーっと辿っていけば、
自分に戻ってくることが少なくないように思う。
ここでは、理解のための具体例は避け、読者の経験に
委ねることにしようと思う。
まずは、自分の力不足を責める自己批判が必要であり、
それを笑いながら公表し、改善のための工夫に、
相手と取り組むくらいの度量の広さが仕事をする上では
必要なんじゃないかな。

身から出た錆とは、よくいったものである。
すべて自分から問題が生じていると思えば、
怒る気にはなれないはずである。

もちろん、ストレスを貯めすぎて、精神的に参って
しまっては面白くない。それでも、自分自身で導ける
解決策に目をやる方が、相手にプリプリ怒るよりも
随分生産的なのだろう。

2012年6月7日木曜日

日記とは名付けたものの

日記とは名付けたものの、日々の更新が全然できていない。
まとめて書くことが見つけられていないのだと思う。
ツイッターやフェイスブックで、ちょこちょこと書くことが
多くなっているのが、ひとつの要因である。
ツイッター以前は、毎日、ブログを書いていたのだけど、
いまは、そうなっていない。

今が自分にとって、そういう時期でないという解釈もできる
だろう。労力を割くべき対象が変わってしまった。
短い一日の数分を何のために使うのか、その優先順位が、
以前とは違っているのである。

それでも、これからものを書いて生きて行こうと思うのであれば、
まとまった思考の履歴を残していくことが、思考の地層をなし、
価値の基盤となってくれるのだろう。

看板は簡単に変えるべきではない。名付けは、軸としての初心
を表すものであるから。制約には、思考を自由にするという
側面がある。

こういうことを書きながら、日記が日記として成立していない
自分への言い訳を書いてみるのである。

2012年5月19日土曜日

いつも夜咲くアザミ

僕は、アザミをみつけると、いつも中島みゆきを
思い出してしまうのです。

♪ララバイ ひとりで 眠れない夜は♪

畑貯水池からの眺め


八幡西区の畑貯水池に来ました。
西向きの眺め、遠く続く鉄塔群は壮観です。
@つ

2012年4月1日日曜日

「ひびきみつおう」と「げんかいほっぺ」

久しぶりにブログを書こうとすると、何を書こうか迷ってしまう。
Twitterやフェイスブックを主に使うようになると
すこし毛色の違うブログの入力画面を前にして考えてしまうなあ。

よし、いちご狩りについて書いておこう。

昨日は、いい日和だったこともあり、近所にいちご狩りに行くことにした。
私が住んでいる福岡県北部地域には、あちらこちらに果樹園があり、
いまの時期は、いちご狩りのアップシーズンなのである。

訪れた農園には珍しい品種があって、たくさん食べてきた。
今年からこの地域に出回っている新しい種類には、黄色や緑色の
ままで完熟を迎えるものがある。農家の方が「これが人気なんです」
と進めてくれたのは、「ひびきみつおう」という黄金色のいちごで、
一見まさかと疑ってしまうのだが、頬張ってみるとなるほど、
いちごの風味に、他と比べて高い甘さ、糖度でいえば何倍だろうか。
これは美味い!
ちなみに、緑色のいちごは、「げんかいほっぺ」というそうで、
どちらもこの地域で開発された新品種なのだそうです。

まだ、苗が多くはでていないということで、いくつかの農家に
限定されているとのこと。機会があれば、北部九州地域へ
いちご狩りにいらっしゃって下さい。
その他に、これからはヤリイカの最盛期に入ります。透明のイカ刺し
をざぁーっ箸ですくって、暖かいご飯で掻き込むのは、本当に
この地域ならではの贅沢でしょう。

2012年3月26日月曜日

すべてエネルギーにしてしまおう。

日々の生活の中には、思いもよらない事が起こるものである。
むしろ、思いもよらないことばかりで、日々は成り立っている
といっても間違いではないのかもしれない。

将来に向けた見通しを付けるための計画は、ことごとく「邪魔」
されてしまう。しかし、実は、その「邪魔」であると思っている
ことが実は人生の本質であり、「邪魔」がないことなんて
ありえないのである。自分の身の回りで起こるどんなことも、
自分の将来にとって必要な事象なのである。

豊かな人生のために、何ごとも自分の栄養に替えて、
すべてエネルギーにしてしまおう。

2012年2月26日日曜日

2012年2月24日金曜日

ガーベラの鉢植え

もうウチの子になって、ひと月になります。
新しい葉も生えてきて、元気です。
次の蔓が伸びてきて、花を咲かせてくれるのが、楽しみです。

投稿テスト

僕のはスマホでなく、まだケータイなので、メールでの投稿方法を確認しておくことにした。
今時なかなかやらないけれど、それゆえ、新鮮だな。
@つ

歌い踊り、世界を活気づけていこうじゃないか。

年末や年度末は忙しいというが、僕にとっては、2月末が大抵忙しい。
特に、学内の書類提出、卒論や修論の仕上げ、成績の提出、自分の論文の提出など、
課題が山積になるのである。
3月は、むしろ、そういう仕事から解放されて、自由に時間を作ってやりたいことに
取り組める貴重な時期になる。

今朝は、久しぶりに徹夜した。もうろうとしながら、原稿をメール添付で提出し、
朝食を食べないまま、(テーブルロールをかじりながら、)出勤し、
9時半からSUW戦略的水・資源環境リーダー事業の修了者ブリーフィングに参加して、
いくつか質問させて頂いた。どの人も、Linga Francaである英語で、
ご自身の2年間の活動のサマリーを紹介した。評価委員の佐藤さんと貴戸さんからは、
リーダーシップやブリッジ人材になるということについての質問が飛んだ。
6名のプレゼンターは、それぞれに自分の考えを述べていた。とっても偉かった。

お昼休みには、徹夜明けでズレたバイオリズムを回復するために、30分間の
ウォーキングにでた。春の空気が心地良かった。昨晩の春一番を告げる誰かの
Tweetは正しかったと思う。これから三寒四温で進むの通例だが、僕の中では、
Spring Has Come!である。待ちに待っていた季節。冬の蓄積を解放する季節。
歌い踊り、世界を活気づけていこうじゃないか。

2012年2月23日木曜日

思いついたことは出来る。

(この記事は2月23日午前のTweetを編集したものです。)

教師の最大の存在意義は、教師なしで自学自習できる人を育てることだ。教師がいなくなることが、教育の最大の成果である。さようならできるまで、教師の仕事は続くのである。

大学生で中学生対象の塾のアルバイトをしていた時に、「僕の仕事は君らが塾に来なくても勉強できるようにすることなんや」といったけど、彼らはぽかーんと聞いていた。

同じ中学生たちが、わざわざ塾にまで来て遊んでばっかりいるときには、「何しに塾にきてんのや、お母ちゃんに言われて来てるんやったら、もう止めとけ止めとけ」といったことがある。それを塾長が横で聞いていたらしく、あとで叱られた。

けっきょく、そういう人を仕上げていく方法論にたどり着いていないということは、自分の力量が足りないことの証拠であり、工夫の余地がたくさんあるということだ。つまりは、自分の伸びしろがいくらでもあるということである。やり甲斐があるねえ。

もちろん、自分自身が学び続けて、成果を出し続けていなければ、周りの人をどうこうというわけにはいかないのです。そう思うと、やるべきことに優先順位はあっても、その際限はなく、いくらでも増えていくのです。

ああ、誰かがいつかTweetしていたけど、「実名でTweetしているとどんどん『いい人』になってしまう」。おっしゃる通りでした。

でも僕は、匿名でTweetしたりなんかしません。むしろ、その制約を乗り越えてやろうと思うのです。・・・そうか、だから僕は経済的に独立性を確保することが大事だと思っているのか。などほど。

他人の看板で商売していては、好きなことは語れんとです。とどのつまりはそういうこと。語れん自分を鞭打ちながら、ちょっと工夫しながら、しっかり働こう。

言いたいことを言いたいと突き詰めていけば、どこかの職場に生活を依存してることは、不自由の源泉である。気づいている人は、その制約の中でどれだけ話していいかという線引き問題を解いている。ただし、その制約は、無力な自分にとっての命綱であって、簡単には手放せないものである。

しかし、その命綱を手放し、誰も担保してくれない自由を手にしている人には、あこがれを無性に感じるのである。ただし、彼らが抱えている不安が、あこがれだけで置き換えられるほど軽くたやすいものでないことは、想像に難くない。

でも僕は、そういう世界を知ってしまった。それが良い人生だと思ってしまったのだから、そちらへの飛躍を目指さざるを得ない。尊敬するピカソの助言のひとつ「思いついたことは出来る。思いつかないものは出来ない。これは避けがたく、明白なことだ。」

さて、考えることはこれくらいにして、手を動かしましょう。

2012年2月22日水曜日

リニューアル

ブログをリニューアルすることになった。
何事もご破算から再開できるのは、何か嬉しいことである。
これまでの流れを気にすることなく、新しいことに取り組める。
「私たちは、忘れることで、生きて行くことができる」のである。
さあ、今日から何を書いていこうか。