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2022年3月21日月曜日

深夜ラジオに育てられた

こんにちは。辻井洋行です。

ラジオになじんだのは、小学生の頃である。和裁士の母が、仕事をしながらずっとラジオを聞いていたのがきっかけだと思う。花によれば、祖母もまた和裁士で、ずっと国会中継を聞いていたから、政治にとっても詳しい人だったらしい。

僕の朝は、母が台所で流していた「おはようパーソナリティ道上洋三です」で始まった。台所と僕の部屋は、アコーディオンカーテンで仕切られて頂けだったので、ラジオが目覚まし代わりになっていたのだと思う。7時45分頃に、「はみがきのうた」が流れて、身支度をしたら登校していた。

僕自身が、ラジオにのめり込んでいったのは、日曜朝のベストテン番組だった。カセットテープで歌だけを録音して、コレクションを作っていた。その頃には、ダブルデッキ・カセットが普及したので、ダビングして遊んでいた。

深夜ラジオに手を出したのは、MBS「ヤングタウン」とOBCの「ブンブン・ベストテン」からだった。ヤンタンは、嘉門達夫・河合奈保子の火曜日が楽しみで、替え歌を投稿しては、採用してもらえるかどうかドキドキしながら、イヤホンを耳に突っ込んでいた。

深夜ラジオからは、人生のわびさびを教えてもらったと思う。視聴者からのお便りから、数々のエピソードがあり、それらを追体験していたのだと思う。ラジオは、今のソーシャルメディアと同じような役割を担っていた。知らない誰かの日常がラジオで紹介され、パーソナリティによって語られ、また、次の週に呼応したメッセージが取り上げられたりする。

僕が住んでいた賀名生の地は、四方を山に囲まれた谷間の土地だったためか、AMや短波放送は入ってきてもFMはNHKしか聞けなかった。山のうえの方に住んでいる同級生は、FMの民放放送を聞けていたようで羨ましかったな。子どもの頃は、夜遅くにテレビを観るのをはダメだったので、布団の中にラジオを持ち込んで、こっそり聞いていた。田舎暮らしの僕にとっては、ラジオが広い世の中への窓口であり、大げさにいえば福音だったのだと思う。狭い空を旅客機が横切るのをいつも見上げていた。遠いどこかへつながっているのが、ラジオだった。

今も、車の中や庭で作業をするときには、ラジオを聞いている。最近では、Podcastを聞くことも多い。音声だけなので、視覚を取られることがないので、緻密な思考が不要な作業とラジオはお互いに邪魔しないのが良い。きっとラジオとは、一生付き合っていくのだろう。たまに、ニヤニヤしながら。

写真はハイフォンでみた久光製薬の販促グラス


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