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2023年5月9日火曜日

間合いの大切さ

柔道は7年くらい続けて、そのあと辞めてから35年くらい経つので、もう経験者だとは言えないと思う。それでも、やっていた時に身について、忘れないことがある。それは、間合いを取ることの大切さである。組み合う相手と呼吸を合わせつつ、一瞬のズレを生み出して懐に入り込む。最小限の力で、相手を制する所作である。ただ、制することは、柔道の大事な教えてはなく、それを形にするための自身の心身を自在に操ること、また、その困難さを会得することこそが本質なのだろうと思う。柔道は、武術であり、試合の勝ち負けを決するのだけど、その結果は、自身を知るための手段に過ぎないはずである。こんな気づきを得てはいるものの、日常生活の中で、実を結んでいるかといえば、そうでもない。話す相手との間合い、適切な発話の選択など、改善の余地はいくらでもある。まあ、そういう余地の存在に気づけるようになったのは、子どもの頃やっていた柔道なのだろうと感謝している。

ニューヨーク!2016


2023年5月8日月曜日

自分のことより、周りの人のこと

自分の誕生日は、父母に感謝を伝える日にしています。父母が居たから、自分がいることを改めて強く意識するようになったのは、自分が人の親になってからのことです。子どもは、親に感謝などせずに育っていくものだけど、そのターニングポイントになるのは、どの時なのではないだろうか。自分が五十路に入れば、父母が達者で、長生きしてくれることを願うばかり。ただ、運命の日が先延ばしになることを祈るばかり。離れて住んでいれば、なおのことである。父母には、子どものことから、自分のことより、周りの人のことを先にするように言われて育ってきました。そのことは、今も染みついていて、日々の行動の第一原則になっていると思います。世の中は、多様な人で成り立っており、自分もその一員として、その行動原則を大事に思いながら参加できていることを改めて誇りに思います。

2016年のサンパウロ


2023年5月7日日曜日

花より野菜

猫の額のような賃貸の庭で、家庭菜園的なことをしている。引っ越してきた時には、花の苗を寄せ植えて飾っていたものだけど、ここ数年はすっかり野菜ばかりになっている。特に、2020年の春からは、外出が制限されることがよくあったので、庭で土をいじるのが、息抜きになっていた。

野菜を植えるのは、収穫して食べる楽しみがついて来るからである。花の中には食べられるものもあるが、野菜は花を咲かせ、さらに食べることができる。中には、花が咲いたらも食べられないものがあるので、要注意である。

レタス、チシャ、不断草、小松菜、インゲン豆、二十日大根、カボチャ、タマネギ、唐辛子、ミョウガ、トウモロコシなどなど。特に、ここ数ヶ月は、葉もの野菜は根が高い。また、夏場の素麺やざる蕎麦を食べる時に、庭に出ればミョウガを採って来られるので、薬味には困らない。ミョウガは、根っこを残しておけば、まいとし芽を出してくれる。

食生活を全て賄うほどの量を収穫することできないのだけど、家計の助けになっているようだし、自分で作付けして世話をしているものを食する楽しみは、代えがたいものである。暇さえあれば、種を空いたスペースに撒いて、発芽を楽しみにしている。初夏は、どんどん野菜が育つので、飽きることがない。

去年の唐辛子


仕事を離れて、何もしない数日を過ごせば

 自分を甘やかす9日間が、そろそろ終わる。この間のマーベラス・ミセス・メイゼルからの学びは、「歩みを止めるな。舞台に立ち続けろ。」ということである。仕事は、放電の時間であるから、誰にでも充電の期間が必要である。放電しながら充電し続けることもできるが、それは、差し引きマイナスの放電過多の傾向になる。仕事を離れて、何もしない数日を過ごせば、初動で手足の動くことが、きっと性に合った仕事なのだろうと察しを自身でつけることができる。つまらないのは、これまでにやってきたことを縮小再生産するようなことである。常に、未経験のことを取り込んで、経験をアップデートしていくことが、自身のご機嫌を良好に保つ数少ない策だと思っている。それは、身の回りの人達を勢いづけることにも繋がるのだろう。



2023年5月6日土曜日

自身の成り立ちをよく知ること

人生の一大事は、自分ではない誰かにある。それは、誰かがそこにいるから、自分自身があるからである。自分がいなくなったとしても、自身は困ることはないが、他の誰かが困ることになる。そう思うから、生きて何かをしていようと思えるものである。自分が自身のためにだけあるということはできるのだろうか。自分が他がどうであれ、自身として成り立つというのは、行き過ぎた西洋的個人主義なのだろうと思う。自分は、他の誰かとの関係によって成り立っていて、思考もまた不可であり、他との相互作用において成り立っている。そう考えれば、自分の身の置き場についてよく考えるようになるし、自身の発言について慎重であることができるようになる。自身の成り立ちをよく理解することは、取り巻く他への思いやりにも気を使うことに繋がるのだと思う


2023年5月2日火曜日

磯はいつも形を変える

すこし促される形で、ブログをまた書き始めた。毎日の日課として書いていたことがある。また、気が付いたら書くということもある。書いたり、書かなかったり、何かきっかけが、有りや無しや。僕の場合は、流れるままである。毎日、1年間続けて書き続けられるのは、物書きとしての才能であるし、何より根気のなせる技であると思う。誰かが取り組んでいることは、大抵は、根気よく続けることで、ある程度までできるようになるもの。ただ、それをするつもりになるかどうか。その興味関心の方向の違いが個性なのだろう。
近所の磯はいつも形を変える

2023年4月30日日曜日

愛嬌の良さと用心深さと

 部屋の中に、小さな硝子の水槽があって、20匹くらいのメダカが住んでいる。メダカたちは、食べ物が水面に投下されるタイミングをよく分かっている。水槽の透明のフタを外すと、水藻の間から、メダカたちが次々に浮上してくる。それが可愛らしくて、ついついたくさん餌を摘まんやりたくなる。

その一方で、庭の鉢に住んでいる金魚2匹は、用心深い。そもそも鉢に人影が近づくと、水藻や石の影に身を潜めてしまう。食べ物を水面に浮かべてもしばらくは、食べにやってこない。人影が離れたことを見計らって、やっと浮上してくる。

危険を回避して、生存に適しているのは、きっと金魚の方である。メダカたちは、外的かもしれない人影へ無防備に身体を晒してしまっている。もちろん、僕がメダカを捕って食うことはないのだけど、万が一野良猫が襲うような事があれば、身を潜める金魚が生き残る。しかし、あまり愛想がないため、餌を満腹もらえていないのは、金魚の方なのかもしれない。

生きるために必要なのは、はたして、愛嬌の良さなのか、用心深さなのだろうか。

奈良公園でせんべいをせしめる鹿は図々しいやつに決まってる


2023年4月27日木曜日

なんという理不尽!でもそれがよい。



 4月に入って、週に1回のテニスの時間が再開して4週目になった。かれこれ、7年ほどラケットは収納にしまったままだった。前にガットを張り替えた時期がステッカーで貼り付けてあったのを確認すると平成20年とあった。なんと15年前のことだ。ガットが切れずにもっていたのは、52パウンドと緩めの調子で張ってあったからなのかもしれない。

テニスをするとコートの中を走り回ることになる。しばらくすれば、自然と有酸素運動になっていく。相手からのボールを打ち返さないといけないわけだから、自分の意に反して、走らせられることになる。なんという理不尽さだろうか!笑 相手との力量の差が少なければ、それだけラリーが続くことになるので、コートを前後左右へと走りまわることになる。

コートでのラリーが壁打ちと違うのは、自分のペースで進まないということである。壁は、自分の打ち方で跳ね返りを予想できるのだけど、相手のいるコートでは、そうはいかない。ある程度の球筋は読めても、不確実なことが必ずある。それが、相手のいるスポーツの特徴なのだと思う。

それでも、しばらく走り回っているうちに、心拍数がほどよく上がり、調子が上がっていく。きっとこういうことを週1回と言わず、なんども作るのが、気分良く一週間を過ごすのにはいいのだろう。優先順位を下げずに、時間を確保して必ずコートに立つようにしたい。きっとこういう習慣が、仕事にもいい影響を与えるのだと思って。

今日は、サービスゲームをキープできた時があれば、ストレートで落としたこともあった。まだまだサーブもショットも安定していない。自分の伸び鞘も感じられた。

アンコールワットの回廊

2023年4月26日水曜日

ゆっくりにも良いことがある

いつもは、都市高速を使って、さーっと通過してしまう道のりなのだけど、すこし時間があったので、一般道で移動することにした。次の目的地まで、一般道優先モードで設定して、車を走らせた。知っている区内にも、知らない地名が出てくる。

両国橋から井堀を抜けて、下到津、篠崎へと抜けていく。これだけで、どこからどこへ移動してのか分かる人もいるだろう。どの地名が隣り合っているのか。街道沿いに繋がっているのかが、すこし分かった。

自動車専用道路では、見られない景色を堪能した30分間くらい小さな移動だった。それでも、ゆっくり進むことで、いいことがあるもんだなと再確認できたと思う。もっと、街をよく知るために、こんどは、自転車や徒歩で移動してみようか、とも。

なごみのヨドリちゃん


2023年4月25日火曜日

「ぼくたちは、自分に正直に生きている」

東京からゼミの卒業生が来て、こちらに住む同窓生を交えて一緒に呑もうとLINEグループができたので、近くの駅前に店を予約し、7時に待ち合わせた。3人とも2009年前後の卒業というので、14年くらい前のこと、それぞれ30代半ばを過ぎて、すっかり世の中の中軸を担う人達である。

どの人も前つんのめりで、一生懸命やっていることは、顔つきをみればよく分かる。辛いこともあるはずだけど、それを越えるやり甲斐を自分で作り出そうと取り組む人達である。自分で自分の機嫌を取り、あれもこれも丸抱えで、走っている。

たまに、集っては一息ついて、自分の立ち位置を確認して、また走り出す。

「ぼくたちは、自分に正直に生きている」

と誰かがおもむろにいった。かなり酔いが回ってはいたので、誰が言ったのかは定かでないが、その場にいたみんなが、そうだそうだとうなずいた。(ように思う)

いろんな雑事をひきずりながらも、それをもろともせずに、自分の思いに正直に動いている。それが、機嫌の良さの源なのだろう。たまに、すこし寄り道しながら。


14世紀頃の世界の中心