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2022年10月31日月曜日

広報宣伝こそイベントの肝

イベントを開くための肝は、広報宣伝であると実感するこの頃です。担い手の提供する価値が同じでも、それを届ける相手が合ってこそのこと。受け手のない提供は、空に飯を食わせるようなものである。
世の中には、魅力的なイベントがごまんとある。受け手の身は一つであるので、いくつもの機会を同時に得ることはできない。秋の日和のよい頃は、尚更である。
広報宣伝には、粘り強さが必要である。なんども足を運んだり、メールを送ったり、断られても、次を目指すしかない。心がくじけそうになっても、この価値を受けるべき人の届けるための努力は惜しんではいけない。
メールを書くのは、費用が掛からない。時間を使うけど、タダで取り組めることである。それで、たくさんの人たちに、提供したい価値が届くのであれば、安い努力に過ぎない。

2022年10月28日金曜日

自身を俯瞰する日

科目「企業研究」では、向こう8週間に渡って、先進ものづくり企業の出前授業シリーズを行うことになっていて、今日は、三島光産株式会社の方々をお招きした。

印象に残った言葉は、チームワークとやり甲斐だった。客先からの注文に応えるべく、知恵を絞り、チームで打開していく営みが、こちらの日常なのだと思う。

僕自身の仕事は、基本的に単独で取り組むことが多く、チームでの協業の機会はほとんどない。子どもの頃からやってきたスポーツは、柔道とテニスで、大勢のチームで知恵を出し合うものでもない。経営学が研究対象であるのは、自分自身がマネジメントがそもそも不得意で、上手にやりこなす人たちの営みが不思議であるからなのだろう。

久しぶりに自身を少し俯瞰した日だった。

2022年10月27日木曜日

本人動静

リープラ・ジャパンの鎌田さんと大学でのアントレ教育の現状とこれからについてのディスカッション。連携している教員やFAISの方々とも、論点を共有できた。キャリア教育の文脈ではなく、より広く主体性を持って生きること意味、それによる世界観の変化に重点を置くこと。

小倉南署の巡査部長さんと留学生を交えた知らない法令や生活上の困りごと、通報方法などについての啓発について。片言の日本語でも、問題が起こった場所を伝えることさえできれば、警察は直行できるので、ためらわずに110番通報をして欲しいとのこと。

特別授業でご連携頂く三井ハイテック(株)の方と会場になる教室の下見や当日の流れの確認を行った。大学は、人が出会って知的交流を通じて、アイデアを共有・共感する場所である。個人が抱える個別具体の課題を解決していく緻密な機会を生み出していきたい。

2022年10月26日水曜日

学研都市ひびきのアイデアソン2022インターナショナルに向けて

「学研都市ひびきのアイデアソン2022インターナショナル」(12月3日)に向けた運営チームの打合せを行ないました。北九大生協学生委員から有志が集まってくれて、ポスター広報や賞品の企画を進めました。アイデアソンは、コミュニティに共通の困りごとを解決するアイデアを出し合うワークショップのこと。学研都市ひびきのには、技術シーズや多様性などの地域資源があるのに、どこかお互いによそよそしくて、グルーブ感に欠けるという声があちこちから聞こえて来ます。そんな状況を打破して、ひびきのに縁あって集った人たちが、協働して自己実現を図れるコミュニティを作っていきます。ぜひ、この試みにジョインして下さい。

2022年10月25日火曜日

デジタルノマドの視野狭窄

ずっと同じ場所に留まっている時間が長くなると自分の視野が狭窄していくことを感じる。ネットをサーフして、デジタルノマド生活を続ける時間が長くなり、物事を感じるセンサーが鈍くなってしまっているのだと思う。どれだけ主体的であり、情報を目と耳から仕入れているとしても、自身と実体の間を仕切るメディアを通じた情報はどこかよそよそしい。きっと、こういうことに思い当たるということは、それ以前の記憶がまだわずかに残っていて、何が自分にとっての当たり前であったのかを想起させるのだろう。

2022年10月24日月曜日

共感の場をつくる

午前と午後に、三島光産と新日本熱学の皆さんとそれぞれ特別授業の打合せをした。
企業の方々と大学生との交流でも、「共感」は大きな論点だと思う。それぞれが、どうありたいのか、これから何処へ進んでいくのか。交流の中で、方向性を示し、また、方向性を示すためのヒントを得ること。学び合い、高め合いの場を作りたいと思う。

2022年10月23日日曜日

なかにし養鶏場さんへ

近所のなかにし養鶏場さんに行ったのは初めてだった。前から、道路沿いの幟が気になっていたのだけど。大通りから脇道に入って、きっと以前の本通りだったと思われる小道を進んでいく。飾り気のない建屋、鶏舎のある奥の方には、鳥インフルなど感染症対策で入ることはできない。店舗の奥さんに商品について尋ねてみると、一つずつ丁寧に説明して下さった。プリンを頂き、卵や鶏肉を買い、ケージの中の犬氏を少し可愛がった。

なかにし養鶏所さんの創業は、大正10年で、100年を越える事業者さんとのこと。長く続く秘訣はなんだろう。きっと事業の取り回しと承継に秘訣があるんではないだろうか。




2022年10月22日土曜日

わがままな性分

性分として、誰かに何かを教えてもらうことが好きな人と好きでない人がいる。僕自身は、どちらかと言えば後者である。誰かに教えてもらうよりは、自分で必要なことを調べて、どうにかこうにかものにしていくのが性分のようである。誰かが作ったカリキュラムにのるよりは、自分で学び方の筋道を立てる。もちろん、専門家に習えば、より早くある程度のところまで達することができるのだろう。誰かが書いたテキストを読むのは、それに習っているのと同じともいえるが、それを読むのかどうか、いつ、どのスピードで読み進めるのかを自分で決めて進めたい。端から見れば、こういう人は、不器用で面倒なもので、一言で言いあわらすなら、わがままということなのだろう。しかたない、そういう性分になってきてしまったのだから。

        

2022年10月21日金曜日

バラよりソフト

 近所にあるグリーンパーク(北九州)で、バラ園フェアをやっているという。花の盛りは、年に1度だろう、なんだかおかしいなあと調べてみたら、今年の5月に同じ公園に行ってバラを見て来たらしく、写真が残っていた。思い込みは禁物。どうやら、バラには春と秋に2度の盛りがやってくるらしい。

グリーンパークのバラの季節には、いつもバラのフレーバーのソフトクリームを売るキッチンカーがやってきる。花の観賞もわるくないが、僕は期待するのはもっぱらこちら。花より団子、バラよりソフトである。



2022年10月20日木曜日

可能性世界へ

ボキャブラリーの範囲が異なる人たちと話せば、世界が広がっていく気がする。
同じようなものを見ているようで、全然ちがう角度からまなざしを向けている。

目隠しをして、何人もが大きな像を触った時には、それぞれの印象で、
対象を言い当てようとする。異なる回答は、人の能力の限界を示す。

その一方で、一様でない物事の捉え方を明らかにしている。
人々による解釈の種類だけ、世界像の可能性がある。誰かの世界観、
多くの人が共有している解釈ばかりが、正解ではない。

受入られずくじけそうでも、自身の物の見方に賭けておくことが、
多くの人々を救うことになるかもしれない。

そういう空想・妄想は、可能な世界への扉になり得る。


2022年10月19日水曜日

マンホールの蓋に映る地域の誉れ

マンホールの蓋に芸術性を注ぐ人たちの気持ちの熱さに畏れ入ってしまいます。

それは、このアートが鋳物であるためと無縁ではないでしょう。

商店街を歩きつつ、なんということもない路面に印象的な花が咲いています。「ああ、熊本には、ヒゴツバキ(肥後椿)があって、住む人の誉れなんだ」と気付くことができます。



2022年10月18日火曜日

番茶ソフトクリーム

地域にはそれぞれの味があり、この「番茶ソフト」 もその一つでしょう。奈良県吉野郡大淀町の道の駅で味わうことができます。色味は、くすんだ茶色、チョコでもごまでも無い色合い。一見苦いのではと身構えてしまうほど。注文して手渡ししてくれるときに、店員さんが、番茶のパウダーを振りかけてくれるので、ひとくち目から、番茶の香りが鼻を抜けます。甘さはほどよく、子ども向けというよりは、壮年向けのひと品です。

番茶は、この地域で広く作られています。とはいっても、番茶の畑が広がっているのではなく、どちらかといえば、畑の端っこで栽培しているというもの。また、番茶は、吉野のソウルフードの一つである「おかいさん」(番茶で飯を煮込んだ粥)に欠かせない。ということなので、この地域に生まれ育ったものにとっては、番茶ソフトは、抹茶に代わるものではなく、唯一無二の意味合いを含んでいるのです。抹茶ソフトでは面白くないから、番茶でというような安易なものではなく、この地域の雰囲気を堪能するのであれば、番茶でなくれば駄目というほどのことでもあるのです。

目立ってメディアで取り上げられたことのない品ではありますが、覚えのある限り10年は販売が続いているものと思います。吉野にお越しの際は、ぜひ番茶ソフトを道の駅で求めて見て下さい。



2022年10月17日月曜日

人手の取り合いでは芸がない

地域活性化の解答が、他の地域から人を引っ張ってくるようなことの一点張りでは、ちょっと芸がない。それは、あちらから、こちらへと人が移動するという話しに過ぎない。人手を得た方は嬉しいだろうが、取られた方は恨み節が止まないことだろう。人を引っ張って来ないとダメということでは、どこかが泣きを見る。そんなことでは、世間が殺伐とする一方ではないか。

働き手の取り合いに凌ぎを削るような発想は、学徒集団就職の頃から基本的な考え方が変わらない。むしろ、足りないものは、分かち合うことを考えるべきだろう。デジタル化の技術は、遠隔からの仕事を可能にする。英会話だって、コンタクトセンター業務だって、遠隔から可能な仕事になっている。開発業務やコンサルティングも、同じように行うことができる。

むろん、目の前に生身の人がいるとのは、同じでは無いだろう。それでも、制限のある中で、適材適所で組み合わせることだってできるはずである。現に、そういうことに取り組む会社の事例はいくつかある。

副業兼業は、もう流行り言葉ではなくなり、実際的な選択肢になった。目の前の人も、画面の向こうや目がバースメタバースの中の人も、やりようであなたの仕事を助けてくれる。昔からと同じであらねばならぬを捨てて、今どきならこんなこともできるという柔らかさを持って、仕事を続けたいものである。

2022年10月16日日曜日

面倒なことは生活を豊かにしてくれる

関わることは面倒くさいが、生活を豊かにしてくれる。

うちには、猫の額ほどの庭がついているので、そこにいくらか野菜を植えている。いまどき野菜は、スーパーで買ってくれば間に合うのだけど、庭に植えておけば、旬がいつ頃なんだとか。値段が割高だのお得だのということに、興味を持てるようになる。葉もの野菜なんかは、蝶々の幼虫がついて割れたり、ナメクジに食われたりする。見つけたら箸で摘まんでご退散頂くことになる。虫除けの農薬の力を借りることもあるが、どんなのを使うのか、ホームセンターでよく考えるようになる。家庭菜園用の農薬は手軽なスプレータイプがたくさん売っているのだけど、成分表をよく読めば、有効成分の割合はほんの少しで、ほとんど水を買っているということにも気付くことになる。

朝に、菜っ葉を取りに庭にでれば、朝露が降りたことに気付くことになるし、日当たりがよくないと発育が進んでいないなあなんて思うこともある。ひとつの野菜の収穫が終わったら、その後に何を作付けしようか、その前に、苦土石灰で土壌改良をしておこうかとか、計画することにもなる。そういうことをやっていると、スーパーで売っている野菜がそこに並ぶまでのプロセスがなんとなく想像できるようになり、これまた関心の対象になる。

ここに書いたのは、家庭菜園のことであるが、身の回りの人々についても同じで、関わらなければ何の面倒もないが、関わることで手間は掛かる一方で、その人の行動や言葉から、あれこれ学び取ることができる。そういう風に関わる間柄をコミュニティというのだろう。コミュニティは、日本語の世間ではちょっと遠い気がする。何かこの面倒くさくも豊かさを運んで来てくれる人たちの関係を表す丁度いい言葉はないものだろうか。

2022年10月15日土曜日

小さくはじめる

10月から再開した日記が続いている。一週間分が1ページの日記帳に、毎日3行だけ書いている。小さく始めるがよいとは、良く言ったことである。始めから大きな目標を持つとぐうたらな自分を古い立たせるだけで、労力を使い切ってしまう。
3行日記が続くとごく稀なことだが、隣のページまではみ出して書いてしまうことがある。そのはみ出しに、なかなか良い言葉が含まれていたりする。また、定期的に日記帳を手に取るので、記念のチケットやビール瓶から剥がしたラベルを貼っておこうと思うようにもなる。常に手に取るようになれば、自分の道具となり、身体の一部にもなる。疎遠になってしまったら、もうそれまで。

2022年10月12日水曜日

固い心、柔らかい心

「固いもの同士がぶつかると割れてしまう」と相田みつをが書いていた。それぞれの主張を曲げなければ、物事は平行線をたどり、時に衝突が起こる。

世の中は、お持ちよりと分かち合いで成り立っていると思えば、いつまでも歩み寄らないことが馬鹿なことだと気付くことになるはずだ。

自分の領地領分、約束の履行不履行、家族感の違い、世の中の仕組みの違い。関係が近ければ、それだけ違いが目立つようになる。いっそ、お互いの違いにだけ注目しつづければ、共通点が見えて折り合いを付けられるようになるのではないかと思う。
そういう視点の変更、心の柔らかさを持ちたいものである。

2022年10月10日月曜日

芋掘り

サツマイモを収穫した。うちの猫の額にような広さの菜園に、春先だったか、苗を買ってきて作付けした。他の野菜のように、手入れが必要なく、夏に少し追肥をしたりした程度、蔓が伸び葉が広がるに任せていた。安納芋と他2種類の名前は忘れてしまっていた。

掘り出してみれば、丸々と太った芋や小さい根っこが少し膨らんだくらいのものまで、ひと抱えするくらいの数が取れた。初めての作付けにしては、よく取れたと思う。いくつかは、地中で虫に食われて小さい穴の空いてるものも合ったけど、ほとんどは無傷でよかった。いくつも植えておいてよかった。

こういうことは、他の野菜にもいえる。作付けするときには、ひとつだけでなく、必ずいくつか用意することにしている。リスク分散は、ものを抱える時には当たり前にやっておくべきことで、小さなものでの同じである。猫額菜園でも、気付けばたくさん虫がついて、食べられなくなってしまったり、日照条件などの都合で発育不全になってしまったりする。

いくつかの株を植えておけば、そういう悲運をさけて前進し続けることができる。

2022年10月9日日曜日

思索の材料

気に入った作家の話を聞こうと思えば、東京や大きな街の会場へ出向いて直接聞く、そういう時代ではなくなった。その人の雰囲気まで感じようとすれば、直接聞くしかないが、話す内容だけど汲み取るには、オンラインで視聴することができるようになった。たくさんの交通費を支払う必要もない。

また、多くの人が聞きたい話し手ほど、オンラインのビデオアーカイブやポッドキャストをアップロードするようになって来ている。むしろ、それを聞いているだけで、一日が過ぎてしまうほどの量である。ただ、そういう視聴にだけで、時間を割くわけにはいかない。1.2倍や1.5倍速で視聴するにしても、時間が掛かる。

その点で、書籍は時間の制限を受けにくい。もちろん、字面を追う時間は要するのだけど、自分のペースで読み進めれば、その人の言おうとしていることを掴むことができる。熟読する部分と斜め読みする部分を分けて読みこなすこともできる。

話を聞くことも、書籍を読むことも、目的は、読み手が自身の考えを構築ための助けを得ることにある。ただただ、話し手が発する情報を消費することもできる。それもエンターテイメントとしてわるくないが、得た情報について考察し、思索を充実させること、さらには、自身の思索をもって世間をより充実したものにするべく貢献することが、生き甲斐というものだろう。

現代は、自分の思索を充実させるための材料がメディアを発展によって、どんどん世に供給され続けており、そのペースは高まっている。ときに、消化仕切れない情報の氾濫には、諦めの念をもつこともあるのだけれども。

2022年10月8日土曜日

ブラウン神父シリーズ

アマゾンプライムで観られるBBCのブラウン神父シリーズが気に入っている。シーン3までやってきた。ひょうひょうとした神父が、直面した難題を推理と調査で解明していく。

アガサクリスティにポアロシリーズやマープルシリーズと違うのは、主人公が神父であり、罪を犯した人や関係者が、告白をしていく場面である。神父は、守秘義務を楯に、周囲や警察には話さない。それでも、告白は、神父の推理を裏付けて、問題の解決に繋がっていく。神父とくキャラクターは、罪を背負った人が心の解放を求めて頼ってくる。

俗人であるポワロやマープルには、そういう場面は登場しない。この3つは、直接的なシリーズではないが、そのように並べて考えれば、面白い題材の設定であると思う。シーズン9まで、まだまだ楽しめそうである。

2022年10月6日木曜日

手入れを押し売らないように

メダカへの餌やりと庭の猫額農園への水やりは、朝の時間がどれだけ窮屈でも、必ずやっている。世話や手入れは、楽しみであるが、責任でもある。餌が足りなくて、メダカが飢え死にしたりしないか。(表の鉢にいるやつは数日大丈夫のはず。)葉もの野菜が、青虫やナメクジに食われていないか。(これは気を許すとけっこうやられる。)いったん、引き受けたら手を抜くことができない。それが、責任ということなのだろう。

その一方で、場所を移動させながら養生していた鉢植えの調子がよくないからと猫額農園の空きスペースに直植えした途端に、青々と葉を茂らせ始めたりする。それは、まるで世話が不要であるかのよう。実際は、適地に収まったからなのだけれど。

責任があるからと思って、手入れ過剰になってしまうとすれば、それは、世話の押し売りということなのだろう。もうすこし自分に世話を焼くようにした方がよいのかもしれない。身の回りのものは、自分の一部という見方があるが、主体を備えているものは、少し距離をおいて、尊重することにして。

2022年10月5日水曜日

斜め見の格好良さ

世間に対する目線は、斜めからちょっとひねくれているくらいが、真摯な姿勢だと思うことがある。正面から反面から、どちらも王道である。斜めからというのは、王道を少し外した目線である。正にも反にもくみしないしない独自の視座からの意見は、痒いところに手を届かせてくれるものであり、「そうそう」と膝を打つものである。

ややもすれば、正か反かのどちらかに流され、それが自分の考えであるかのように思いこんでしまう。そこには、大勢の仲間が控えている安心感がある。
その点で、斜めからの視線は、頼りにする仲間のいない独自の考えを展開するわけであるから、本質的に所在無いものである。その所在の無さを耐えてこその斜め見である。

ただ、世間を斜めに見る人の多くは、ひょうひょうとして、不安の片鱗さえも見せない。それが、格好良さでもある。そんな格好よい人でありたいものである。

2022年10月4日火曜日

野良猫とコミュニティ

コミュニティは、お持ち寄り、分かち合いの集まりであると思う。僕の仕事の場である学研都市には、まだ、大きなコミュニティを感じられないし、他の人もそう言っている。

もちろん、小さなコミュニティはある。大学の中のラボの単位や職場の中の気の置けない人たちは、単なる職場を同じくする人の関係を越えている。ただ、その関係が広く一般的になるには、時間かきっかけが必要であるらしい。

今朝、職場で野良猫を見た。尻尾の短い(無いに等しいくらいの)若い猫だった。大学のキャンパスに野良猫が珍しいく思えるのは、保健衛生上で正しいことなのかもしれないが、空間としての余裕の無さでもある。野良猫が住み着けない空間は、生態系としての要素が欠落していると見ることができるのではないか。

野良猫が数匹住み着いているくらいのキャンパスは、人を含めた生物が生活するのに、余裕のある場所であるだろう。そういうものも規範を立てに、逐次排除してしまう精神は、人が全てを健全に管理できるという思い上がりなのかもしれない。

全てが人の目で管理されている場所に、心の安らぐコミュニティは、果たして発現するのだろうか。


2022年10月3日月曜日

10月からの仕事

第2学期には、北九州商工会議所さんと北九州市雇用政策課さんとの連携で、企業研究という科目を開きます。北九州市内に立地する企業さん13社にご協力頂き、受講生たちが、社会と関わるための場・媒体となる企業についての見識を深めます。

受講生たちは、企業について予め調査を行い、ご登壇頂く際には、質問を投げかけ、その成果物として企業紹介のリーフレット記事を書き上げます。書き上げた記事は、北九州市役所が発行する企業・産業マップとして、関門・九州地域の高校・大学のキャリアセンターへ広く配布されます。

受講生たちにとっては、調査し、文章にまとめることによって、知見を深めることになります。企業は、大学生の目線から自社がどのように見えるのかを理解します。また、リーフレットの読者は、同じ世代の目線で書かれた企業紹介記事から、広告性の低い情報を得て、自身の職業設計に役立てることができます。


2022年10月2日日曜日

町内会の定期清掃

町内会の定期清掃の日だった。年に2度、春と秋に開かれる。

町内は、いくつかの班に分けれていて、それぞれが、近所の通路や公園を担当することになっている。

とはいえ、いつも散歩のついでに、ゴミ拾いをしてくれている方々がおられるので、目立ったゴミが、そこら辺にゴロゴロ転がっているわけではない。

きっとこのイベントは、日頃は疎遠なご近所さんが一堂に会して、あれこれおしゃべりしながら、作業することが肝なのだろうと思う。

一緒に仕事をすれば、仲良くなれるだろう。そういうご近所さんが、もしもの時に、お互いに頼りになるものである。

2022年10月1日土曜日

折り合いをつけながら

畑地を耕し過ぎると地中の生態系を乱してしまうという話を効いて、あまり介入せず、空いたところに種を埋めるようにした。

草引きも、種の植え付けに邪魔になるものを摘まむ程度にしてみた。地中の養分、微生物、表面を覆う草が相まって、生態系が生じている。そこに、種を植えることは、新しい要素が加わることになる。

プランターは、区切られた空間であり、他からある程度切り離されている。家庭菜園は、他の生物との関係で成り立っている。その有り様が活き活きとしているのであれば、干渉はなるべく控える方がよいのかもしれない。

30年ほど前に、拵えられた人工の庭も、歳月を経て生態系を養生して来ている。そこに外来の植物をおいた時に、よく育つとすれば、そこの生態系に受入れられたということになるのだろうし、育たないのであれば、他との関係に旨くなじまなかったということなのだろう。

そういう有り様を楽しみながら、作付けをしていくことにする。こういうのを折り合いを付けるというのだろう。

繋がりを求める心

今日は、仕事を通じて、人が人との繋がりを求める心に触れたように思う。断片的な繋がりではなく、全人的な。

人は、ただの情報の伝達者ではなく、心を持った存在であり、伝えるべき情報に思いを託す。

わたしたちは、それに触れた時に、満足と安らぎを覚えるのである。世の中が忙しく、断片的なつながりばかりになり、心に触れることが少なくなっている。

しかし、人は本来の相互関係を求めて、隔たりを埋めるべく呼び合うのだろう。幸せを感じる機会だった。