自分の役回りを知ることは、世間との関わり方を見い出すということだ。身体的な特性とそれに基づく知的な営みによって、誰かに取って意味のあるモノやコトを生み出すことである。それは、諦めの意味を含むのかもしれないし、身の程を知るということなのかもしれない。ただし、身の程は拡げられるものという精神の青さをまだ捨てられないうちは、そこに諦めは不在である。植物が幼木から老木へと変化していく。人も同じようである。常に変化していくもの。寿命が尽きたとして、生が流転するのかどうか知らないが、役回りはそれぞれの刹那に見いだし得るものと思え。
0 件のコメント:
コメントを投稿