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2020年11月3日火曜日

花鳥風月が心に染み入るのはなぜか?

 庭で野菜を作ったり、植栽に肥料をやったりすることに関心を持つようになったのは、何か生きてるものに関心を持つようになったということだと思う。それは見方を変えると、自分自身が生きているということであり、生かされているということへの実感でもあると思う。

10代や20代の頃の僕にとっては、生きていることがあまりにも当たり前であり、生きているということにそれこそ関心を払わなかったように思う。40代も後半を過ぎると、生きているということやその事実を少し引いた視点から捉えられるようになる。自分自身の生き方にも、少し客 評価が下せるようになってくる。デタッチメントという言葉がある。それは自分の作品を自分から一旦手放して、客観的に眺め、評価してみるということである。


若い頃は、このデタッチメントがなかなか難しくて、自己を正当化したり、言い訳ばかりを重ねてしまう。ハンドウェイビングとは、 苦しい自己弁護繰り返す姿を形容する言葉である。年を重ねれば、手抜かりのある自分を少しは仕方なく重い、またその駄目さ加減を笑って許すこともできるようになる。


そのように、生身で生きる自分を客観視できるようになれば、身の回りにある他の命に対しても、自分と同じように思いやりをもって接しようという気持ちが湧いてくるものである。いつまでも20代のようではないし、20代のような青さを失った分、40代後半になって手に入れられる芳醇さもあるようだ。何かを手に入れるということは、何かを失うということでもある。


人生は誰にも一回限りである。1回限りであるということは、決して取り戻せないということであり、取り戻せないからこそ、そこにかけがえのない価値が沸き起こるのである。だからこそ、花鳥風月は心にしみ入るのである。






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