こんにちは。辻井洋行です。
「同じ釜の飯を食う」という言葉があります。 これは、寝起きを共にする、一緒に生活をするといった意味があります。それは言葉通りの意味なのですが、僕はもう少し立ち入った意味が含まれているように思います。それは、ご飯を食べているときの私たちの無防備さです。食べ物に夢中になっているときは、他の物事への注意が少し薄れてしまうくらいです。
また、食べるという行為そのものが私たちにとって楽しみであるため、ものを食べながら話したことや見たり聞いたりした事は、楽しさを含むイメージとして頭の中に残ることになります。
このように、同じ釜に入っている飯を一緒に食べるという行為には、人と人の間の距離を短くし、連帯感を生み出す効果があるように思います。
コロナ禍では、家族以外の人と、マスクを外して会食をすると言うことが制限されているので、この同じ釜の飯を食うという共通体験を得ることが難しくなっています。次善の策として、オンライン飲み会が一時期流行しました。
僕は、数回参加しましたが、早々とやらなくなりました。オンライン飲み会の場では、たしかに時間は共有してはいますが、物理的な空間や食べ物は共有されません。そういうところに、エモーショナルな欠落を感じて、つまらなく感じてしまったのだと思います。
これから、ワクチンが普及して、1年後くらいには、同じ釜の飯を食う機会が少し増えてくるのかもしれません。それまでは、エモーショナルなつながりを作る事は、なかなか難しいのでしょう。
同じ釜の飯を食わないと連帯感を作りにくいのは、動物としての人間の性(さが)と思います。それを乗り越えて、連帯を作ることができるとすれば、動物としての進化を遂げた人たちなのかもしれませんね。
角打で同じ徳利の酒を呑む
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