こんにちは。辻井洋行です。
住んでる街の選挙が今週末なので、候補者の皆さんの街宣活動にもはピークに達していました。僕自身は、特別なひいき筋もないので、選挙のたびに投票する候補者は変わっていきます。選挙管理委員会が配布している選挙広報は読みますが、たいていは、候補者に会ったことがなく、よくわからないので、投票所前の選挙ポスターを見て、顔の見た目で最終的な判断を行うことが多いように思います。
特定の政党の支持を送っている人は、その政党の都合というのが反映されるでしょうし、無所属の人ならそれはそれで自分の言い分を議会で通す事は簡単ではないでしょう。どちらも一長一短であり、どちらが優れているわけではなと思います。
選挙ポスターは、おそらくいくつも取り直して、1番感じが良いとご本人や選挙事務所の人たちが思うものが採用されているはずです。いわゆる最高の商材写真のはずです。その写真から伝わってくる雰囲気、にじみ出す人柄に対して、自分の気持ちがどのように振れるのかということが判断材料になっています。
世の中は、それぞれの人の貢献で成り立っています。政治や立法は、法治国家に必要な仕事です。ぼく自身は政治家ではないので、代わりに誰かがその仕事をしてくれているということになります。
立法の動向や行政の流れは、新聞などメディアを通じて理解しています。その時々に同じような意見でまとまった人たちのグループが、立法のゆくえや行政上の予算を付けていくことになります。投票によって政治にチェックを入れるという役割が、投票活動を促進する意見としてありますが、多くの人はなんとなく投票してしまうでしょうから、ある程度これまでの流れが慣性力として働くでしょう。
その流れを変えるのは容易なことではありません。あまりにもひどい我田引水は、それをチェックするしかるべき役割の人たちが対応するでしょう。(むしろ、そのチェック機能を果たす行政上の人選こそ立法上の課題かもしれないけど。)
そういうことであれば、新聞や選挙公報で読み取った公言されている政策と選挙ポスターで見る面立ちの好き嫌いで判断するということになります。世の中には、選挙にしゃかりきな方もしれば、全く無関心の方もいます。ぼくは、投票にいくけど、どこかにおもねたり、肩入れするでもなく、その人の雰囲気を感じ取ってヒョイと投げ込んでくる。そんな感じです。
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