こんにちは。辻井洋行です。
今回は、手作りの物の価値について考えてみたいと思います。世の中では割と広く、手作りの物が重宝されるようです。食べ物や家具、マフラーやセーターなどの織物などなど。手作りのご飯で相手の胃袋をつかむなんていう言葉があるくらい、特に料理については高い評価が与えられているようです。
ただし、それは誰が作るかということや作る人ともらう人の間の関係性によって、価値のあるなしが決まってくるという面があります。とても近しい人が作るご飯は、手作りであるとより嬉しいものです。また有名な料理人が作ったコース料理についても同じことがいえます。しかしそれほど近しい間柄でない人が手作りでした料理を勧められて、嬉しく食べることができるかと問われれば、それは時に否かもしれません。
近しくない人の手作りの料理に対して、結構な抵抗感を覚えるのに対して、有名なレストランや料理人であればそうでもありません。知らないおじさんの握った寿司は食べたくありませんが、同じおじさんでもいる有名な職人が素手で握った寿司であれば、美味しく食べられます。その納得感はどこからくるのでしょうか。ブランドでしょうか。信頼感があるとすればそれは何によるのでしょうか。
手作りのものという意味では、手書きの文章も価値を生み出すものの1つです。自分の家族や親類が手書きで書いた文章は、とても価値があるものと感じられます。手書きの手紙や年賀状が到着するとそれはなかなか嬉しいものですよね。有名な作家が書いた手書きの原稿は、とても重宝され、博物館に所蔵されるものもある位です。私たちはその手書きの原稿から、それを描いた作家のリアリティーに思いを馳せるわけです。しかし、一方で、見ず知らずの無名の人が書いた手書きの原稿を読まされることには、抵抗感を感じます。むしろそれが活字になっていた方が、まだ目を通す気になる気になるものです。
手作りと言う事は、そこには作り手の身体性が投影されているわけです。その身体性に対して喜びを感じたり、気持ち悪さを感じたりする感覚を私たちは持っています。気持ち悪さというのは、ノイズへの拒絶感なのかもしれません。ではなぜ、普通のおじさんにはノイズを感じ、職人には感じないのかということについても考える必要があります。
例えば寿司の衛生面と言うことで考えてみましょう。職人は十分に訓練を受けているため、衛生的に寿司を握っていると言うことを期待できます。その一方で、普通のおじさんは、そのような訓練がないため、不衛生な寿司を握っているかもしれません。つまり、同じおじさんでも、職人がこれまでに経てきた訓練の履歴が、同じおじさんが醸し出すノイズを覆い隠してしまうのかもしれません。
また有名な作家であれば、次がどれだけへたくそで読みづらくても、それに触れることが読み手の価値になっています。しかし同じようなへたくそな文字で、一般の人が書いた文章を読む気にならないのは、作家が醸すような価値を、一般の人が持っていないからと言うことになるのでしょう。そのような醸し出す価値がないのであれば、せめて活字と言うノイズの少ない情報伝達の手段で整理してほしいというのが私たちの感覚と言えるのかもしれませんね。
いろいろぐだぐだと書いてしまいました。手作りのものには価値があると私たちは一般的に公言しますが、それは時と場合によるということを改めて考えてみました。大学生のころは、こういうつまらない話を延々と下宿やファミレスでやっていたものです。笑
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